社会福祉法人 児童福祉 児童養護施設

第三章 児童養護施設での記憶

迎えに来ました。

 Kと出会ったのは、Kが小学校3年生の頃でした。当時、私は新任職員、学齢の高い子どもたちより、まず、学齢の低い子どもたちとの関係作りを優先していました。添え寝をしたり、お風呂では一緒に騒いだり、「探険に行くぞ」と声をかけては、山の中に連れて行ったり、チャンバラをしたり、夏には、怪談話をしては、怖がらせたり、そして、月日は流れ、Kは、成長していき中学生になりました。身長165 cmくらいの細身の長身でサッカーが好きなスポーツマン、ルックスも良い少年でした。ただ、学力が低く勉強は、大の苦手でした。
 当時、周囲の環境は、山や畑だった所に開発が進み、僅か5年ほどで○○団地と地名がつくほどの新興住宅地となり、その中心に○○中学校ができました。この団地の中の家庭には、共働きの家庭が多く、子どもたちは、自宅の鍵を持ち、小遣いをたくさん貰う代わりに夕食を一人で済ますと言ったパターンの子どもたちが多数いました。
 Kの友人関係の中にも、家族の愛は希薄だが、小遣いは、たくさん持っている友人がいて、Kは羨ましがっていました。いつの頃からか、暴走族と関わっている友人に誘われてKも暴走族と関わるようになりました。そんなKを私が放っておく訳には行きません。時には、悪友たちと一緒にいるKを迎えに行くことも多々ありました。当時、私が○○団地の中を歩いていると、如何にも不良をしていますと言った中学生が挨拶をしてくることがありました。
 Kが中学2年生の頃は、身長も175 cmほどになり、服装の着方次第で、十分青年に見える雰囲気を持っています。それまでも、Kは家出を数度繰り返していましたが、今回は、なかなかKを探し出すことができません。暴走族仲間にも日々、聞き込みを行いますが情報を流してくれません。しかし、私のしつこさが功を奏して、やっと情報を流してくれました。「暴力団の○○組でお世話になっているらしい」との情報でした。早速、○○組への張り込みです。幾ら当時の私が若いと言っても腕力に自信があるわけではありません。恐怖とKへの想いとの葛藤です。張り込みは、徒労の繰り返しで、Kの姿を確認できない日々が続きました。しかし、ある日、Kの着ていた服と下着の洗濯物が干してあるのを発見しました。姿は、確認できていませんが、少なくともKの所有物は確認できたので、翌日、○○組へ先輩の児童指導員と一緒に挨拶に行くことにしました。
 後で聞いた話ですが、私が張り込みをしていることを暴走族仲間の一人が○○組の構成員に密告をしていたため、私がKの洗濯物を発見した翌日の早朝、横浜のたこつぼ(日雇労働をさせ、その賃金を搾取し、長い期間束縛を続ける場所らしい)に送ったとの事でした。
 そうとは知らず、挨拶に行きました。玄関に立って「組長さんにお願いに来ました。」と挨拶をすると、若い構成員さんが、建物の中に招き入れました。通された部屋は、畳20畳程度の広い部屋で正面には、コの字に並べられた座卓の後ろに8名の大人が座っていました。勿論、中央には、組長さんらしき人物です。皆さん、座卓の上に手を置いていて、多分全員の左手の小指が無かったと記憶しています。
 中央正面に正座し、「Kがこちらでお世話になっていると思いますが迎えに来ました。」と事情を説明するとKと言う子どもは知らないし、ここに立ち寄ってもいないとの返答が返ってきました。未成年者が関わっていることが分かると児童福祉法によって責任者つまり組長が罰せられることになり、○○組としては、事実を隠し通す必要があるわけです。
 30分ほどのやりとりで「もし、Kがこちらと関わる時がありましたら、是非、当園にご連絡をお願いいたします。」と最後の挨拶をし、立ち上がろうとしたとき、私の足は、痺れていて、躓いてしまいました。折角、何とか平静を保ち、この緊張した場面を乗り切ったのに最後の最後で格好悪い態を晒してしまいました。しかし、結局これが良かったのです、「先生もがんばったな、うちの組員が先生に手を出すことはないから安心しな」との組長さんからの有り難い言葉を後に、その場を去りました。
 結局Kは見つからず、所在不明の開始日より1か月が経過し、措置解除の手続きがとられました。これは、私にとって大失敗例です。Kのその後は、全く不明です。しかし、私の心の中には、Kとの思い出が20年以上過ぎた今でも鮮明に残っています。

 子どもたちとの関わりの中では、時にはドラマティックなことも現実には起こります。そのドラマを構成するのは、子どもたちであり、あなたです。できることならハッピーエンドなドラマをプロデュースしましょう。

夢追い挫折

 Yは、専門学校に通っていた。中学生時代は、家出を繰り返し、私は、何度も捜索に出かけては、迎え入れていました。学力的にも低く、何とか専門学校への進学を果たしました。
 そんなYの夢は、専門学校を卒業した後は、オートレーサーの養成校に入って、オートレーサーになることです。家出の時も、川口オートレース場に行っていることがあり、バイクを盗んで乗り回していたこともありました。
 そんなYをいつも温かく見守っている担当保育士がいました。Yが悪さをすると本気で泣きながら叱り、そして、赦し信じることの繰り返し、Yは、悪さをしようと家出をしようと必ず、担当保育士の元へ帰っていました。
 オートレーサーになる夢、現実は、そんなに甘いものではありませんでした。まず、Yにとっての最大の難関は、筆記試験、Yの学力は、お世辞にも高いとは言えず、それは本人自身も理解していました。次なる難関は、経済面です。児童養護施設を出た後は、子どもたちは、自立して生活しなければいけませんが、オートレーサーの養成校は、入寮が条件で、学費や寮費を支払わなければなりません。バイトをする余裕もありません。従って、誰かが経済的援助をしない限り、養成校を続けることは不可能なのです。
 Yは、その現実と向き合い、Yが選んだ道は、夢を捨てることでした。家出をしても、必ず担当保育士の元へ戻ってきていたYがなかなか戻ってきません。私は、不良と呼ばれたい少年たちを見つけては、情報収集を行いました。その結果、○○暴走族に所属していることが判明し、何とか、その集会日と集会場所の情報を得ることができました。
 そして、その当日、私が張り込んでいると爆音と共にバイクが集結してきました。ある程度、集まってくるとエンジンを止めるバイクもあるため騒音が軽減されました。私は、その時は、一人でしたが、絶対Yをせめて専門学校は卒業させたいとの担当保育士の切実なる願いが私の背中を押し、暴走族の集会へと近づいていきました。一番端にいる少年に「Yと話がしたい、呼んでくれないか」と問いかけました。少年は、「そんな奴、知らない」と拒みましたが、「どうしても話をしなければいけない」との私の訴えに心が動いたのか、集会の中央の方へ向かっていきました。その後しばらくしてから、少年たちの一部が移動し、中央に向かって一本のラインになり、その先からYがこちらに向かって歩いてきました。私は、Yに専門学校は卒業してほしいこと、担当保育士の想い、卒業後、仕事をしてお金を貯めてオートレースの養成校に入る道は残されていることを伝え、帰ってくるように話しましたが、Yは頑なに拒みました。「担当保育士は、Yが帰ってくることを、いつまでも待っているぞ」と話し、その場を後にしました。
 Yは、結局帰ってきませんでした。そして、専門学校を卒業することもなく措置解除になりました。
 後日談として、担当保育士は、Yを探しだし、その後も交流を続けYを支えていたとのことでした。

 あなたの経験でも、子どもたちが夢追いを挫折する場面に遭遇することが多々あることでしょう。確かに現実的に達成不可能な夢を追いかけている子どもたちもいます。しかし、夢は叶えられるのが一番良いのですが、挫折の仕方も大切です。極力子どもたちの心が折れない挫折の経験に導いていくのがあなたの役割なのです。

言葉に責任を

 Tは生意気盛りの中学2年生、ちょっと太めの体型で少なくとも私より大柄の体型です。自己中心的ゆえに反抗的で、子どもたちの中でも浮いた存在でした。
 私は、新任職員ではありませんが、赴任してきたばかりの頃で、まだ、子どもたちとの信頼関係は、構築されていませんでしたが、私なりに許容範囲があり、そのラインを超えたら注意をする、このラインの微調整を行っている状態です。
 そんな中、Tは、注意を受ける場面が多く、最初の頃は、反発をしながらも仕方なく従っていましたが、ある日、とうとう「切れる」と言う状態になりました。Tが他の子どもたちから恐れられている大きな原因は、性格的に「切れる」ことが多いと言うことでした。
 Tは、その大きな体格で私に殴りかかってきました。不意の出来事でしたが、何とか第一波をかわす事ができました。私にとっての不利は、児童指導員であることです。当時は、体罰やセクハラに対する反対運動が浸透してきており、職員が子どもを殴るなどと言った行為は、御法度でした。次なる不利は、仮にTの拳が顔面にヒットし、私の顔が腫れ上がった場合の他の子どもたちの反応です。まだ、子どもたちとの信頼関係が成立していない時期です。中学生に殴られた情けない大人とのレッテルを貼られてしまったら、その回復に膨大な時間を要することでしょう。もう一つの不利は、眼鏡をつけていることです。
 Tの第一波をかわし、第二波、第三波の間隙に「ちょっと待て」とTを一旦制止し「眼鏡を外させろ」と声をかけ、眼鏡を外し近くで傍観している子どもに渡しました。「よしいいぞ」で再開です。私に残された方法は、Tを組み伏せることしかありません。その他の選択肢は、ありませんでした。タックルで何とかTを押し倒し、羽交い締めにすることができました。
 腕力、体力は、明らかに若いTの方が有利です。羽交い締め状態と言えども、体格もあり力もあり、ちょっとでも気を抜けば、あっという間に体勢が逆転されることでしょう。また、取っ組み合いと言うのは、考えている以上に体力の消耗は激しく、持久戦になり、私が力尽きるとサンドバッグ状態になる可能性があり、必死でTの説得に力を注ぎます。
 Tは、勉強を怠っているので学校の成績は思わしくありませんが、IQ-120で高い能力の持ち主でした。それが幸いし、「どちらが正しいんだ。Tかそれとも私か」、周囲の子どもたちは明らかに私の正当性を認めており、そんな雰囲気があり、Tも落ち着いて考えてみると、自分の方が不当であることを再認識し、そんな情報整理の能力は十分に持っていました。やっとTは私の説得に応じ力を抜いてきました。
 この時の結末は、Tは「ごめんなさい」は言えなかったものの「分かった」との表現をしましたので、私は、それで良しとしました。その後、退園するまでTが殴りかかってくることはありませんでした。

 体罰は、絶対行ってはいけません。しかし、子どもたちからの暴力が時にはあり、大変な目にあっている方がいることを察します。大切なことは、一貫性を堅持することです。例えば、子どもたちに「時間を守りなさい」と伝えているのであれば自分自身も時間を守る、それは、子どもたちの見ていない場面でもです。良くあるパターンが子どもたちには「正直に言いなさい」と言いながら、公用車を傷つけても報告しない。あなたの働いている職場の公用車をチェックしてみましょう。無数に傷やへこみがあることでしょう。「自分の言葉に責任を持つ」単純で当たり前の言葉ですが、これを実行していれば、必ず子どもたちは、あなたへの信頼感を持つことができるでしょう。

疾病理解と共感

 M美は、先天性の股関節脱臼です。脱臼しやすい状態で生まれてきて、保護者の保育能力不足により新生児期に赤ちゃんの取扱いが良くなく、股関節脱臼の症状が発症したと考えられました。
 小学低学年の頃、治療による整復を試み、一時は、改善の兆しがあったのですが、M美は至って活発な女の子で自由奔放に動き回り、医師から指示されているリハビリも怠ることが多かったため、脚のひきずり方が顕著に目立つようになってきました。
 月1回、自動車で2時間ほどかけて、聖マリア医科大学病院へ通院していましたが、中学生になったので、最後の手段として手術的整復を行いましょうとの診断が下されました。
 中学2年生の春、M美は、手術しました。勿論、成功です。見た感じ、両足の長さが均等になりました。
 しかし、これからが大切なのです。手術によって整復されても、これまでの歩き方の癖を直し、股関節周囲の筋肉を鍛え、再発防止に努めなければ、今回の手術の意味がないのです。現実的なことを言えば、学童期の現在は、医療費は、受診券によって補助されますが、成人期以降は、数百万円かかる医療費を自己負担しなければなりません。
 M美と私とのリハビリバトル、始まりです。M美は、思春期の女の子、担当は、2□歳の青年、まず、言うことを聞くはずがありません。それで、担当保育士がM美とのリハビリを始めました。私は、毎日、隣で見学です。2週間ほどして、担当保育士が「そろそろ○○さんで良いでしょう?」とM美に話しかけM美は、渋々了承しました。
 だからと言って、素直にまじめにリハビリに取り組むはずがありません。ふざけたり、文句を言ったり、無視したり、毎日毎日、M美との駆け引きバトルでした。それも、時が解決してくれます。当時、私の休日は、隔週2日制で月6日くらいでしたが、休日もM美のリハビリを行いました。1年間365日の内、340日程度、M美につきあいました。それは、M美が中学3年卒業後の家庭引取りの日まで続きました。
 毎日、15分程度のリハビリ、短時間のような印象ですが、実際は、集中した15分のため長く感じます。M美も時には疲れていることもあります。時には、クリスマス会等で楽しい時間の合間にリハビリタイムになることもあります。リハビリに対して辛いことはあっても楽しいことは見つかりません。だからこそ、私は、M美との15分間を大切にしました。

 時には、疾病を持つ子どもに出会うこともあります。疾病は、身体的不調だけではなく、心理的にも不調を来すことがあります。それを軽減してあげるのは、あなたの愛情です。子どもたちの病気を理解し共感し、共に回復・改善に向けて頑張っていこうとの姿勢を子どもたちに示してあげてください。

心強い支え

 U子は、小学6年生で入所してきた眼鏡をかけたかわいい女の子でした。小学5年生の時、若年性糖尿病(1型糖尿病)を発症しました。もし、この病気にかからなければ、U子は、児童養護施設に来ることはなかったでしょう。糖尿病の治療には、特に2型ではなく1型の場合、インスリン療法が必要で治療費負担が家計を圧迫します。U子の家庭は、経済的な面で治療をバックアップすることは不可能でした。
 正確には記憶していませんが、水疱瘡かはしかをきっかけに糖尿病を発症したと思います。2型糖尿病の場合、生活習慣病として大人になってから発症する場合が多いのですが、U子の場合、1型であり、U子には何の落ち度もありません。
 生活上の治療は、食事のカロリー量と投薬量のコントロール、そして、運動によるカロリー消費と精神面での強化を中心に行います。このバランスが崩れると高血糖昏睡に陥るなど、低血糖症を発症することになります。
 U子とのつきあいは、一年365日(その内340日くらい)、共に食事をしカロリー調整を行い。毎夕、インシュリンを投与する。また、毎朝・毎晩2kmのジョギングです。小雨程度だったら決行します。雨天は、室内の階段上り下りです。勿論、自分の休日もです。何故なら、糖尿病の場合、一歩、処置を誤れば生死に関わるから必死でした。
 ある日、U子の体調が崩れました。U子の体調は、把握しているのに原因が分かりません。問いつめると、授業中に飴が回ってきたので貰って食べたとの事でした。その瞬間、U子は、自分の体調より友達との関係を選んだのです。
 誰を責めれば良いのでしょう。勿論、U子を叱り、共に泣きましたが、病気ゆえに友達との些細な関わりも制限されてしまう。そんなU子の気持ちを分かりながらも親代わりとして厳しく接しなければいけない役割。児童養護施設で働く中で一番辛かったことの一つです。
 U子は、中学3年生に進級する前に家庭復帰していきましたが、U子と共に笑い、泣き、怒り、楽しんだ日々は、今も色あせずに私の心の中に残っています。

 決して勘違いして欲しくないのは、糖尿病は、確かに疾病ではありますが、体調管理のコントロールさえ怠らなければ、普通の生活ができます。実際、U子には、「君は糖尿病だけれど、病気と思わなければ病気ではないんだよ」と繰り返し話しながら体調コントロールの大切さを訴え続けました。ただし、「念のためにあめ玉は、必ずポケットに2ヶ入れておこうね」が加わります。重要なことは、支えるあなたが疾病のことを十分に理解しておくことです。子どもたちは、どんなに強がっていても不安なのです。そんな時、あなたが「私がついているから大丈夫よ」と支えてくれたら、どんなに心強いことでしょう。

答え導くお手伝い

 M子は、幼少期から在籍していましたが私が出会ったのは、小学5年生の時でした。えくぼのかわいい女の子でした。
 M子は、吃音がありました。以前は、「どもり」と表現されていましたが、時にはいじめの対象になることもあります。しかし、M子は、小さい頃は、からかわれたりもあったようですが、持ち前の素直な明るい、かわいらしい性格が、幸いし、本人が悩むほどのいじめにはあっていませんでした。
 M子の吃音は、連声型で、最初に発音する言葉を数回連続してしまうパターンです。例えば、「ごめんなさい」の発声の場合、「ご、ご、ごめんなさい」と言った感じです。当時、吃音と言うことで病院に通院することはありませんでした。現在では、疾病として健康保険適用の診療報酬対象ですが、どちらかというと疾病というより癖として認識されている状況でした。M子に対しても言語障害としてのアプローチで治療をしていれば、改善の方向へ向かっていたかも知れません。
 しかし、日々の大人たちの愛情による心配りも治療効果は絶大です。M子は、慌てたり緊張すると吃音が顕著に表れていましたので、そんな場面では、「深呼吸しなさい」「話すのはゆっくりで良いのよ」等、話しかけ、「吃音は、決して恥ずかしいことではないのよ」「吃音があるM子は、悪い子ではないよ。よい子でしょう」と常に肯定的に関わっていくうちに次第にM子の吃音が目立たなくなっていきました。吃音は、完治することは、非常に難しい言語障害とされていますが、改善の方向に向かうことはあるのです。
 そんなM子も成長し調理師の専門学校に通うようになりました。素直なM子は、優等生的な生活を送っていました。帰宅時間も午後6時頃でした。ところが、帰宅時間が午後7時になり午後8時になりと、段々遅くなっていくのです。言い訳は、「友達とおしゃべりしているから」の当たり障りのない返答です。私は、「夜は暗いから危険だ。明日から、バス停に毎日迎えに行く」と宣言しました。勿論、M子は拒みます。
 バス停までは、下り坂で150mですが、道の両脇を樹木が覆っていて、外灯は、20m間隔くらい、薄暗い道でした。そのため、時々、痴漢や変質者が出没したとの噂が流れるような場所でした。
 午後6時は、そろそろ夕食が始まる時間帯ですが、保育士の理解を得て、しばらくは、毎日バス停に迎えに行くことにしました。M子にとっては、迷惑な話でしょう。1日目は午後8時頃、バスを降りてきました。M子はバスを降りると私に見向きもしないで早足に坂道を上っていきます。帰宅したら夕食ですが、私と二人だけの夕食、無言の白々しい雰囲気に包まれています。そんな毎日が続きましたがM子の帰宅時間が8時頃から7時頃へと早まってきました。私にも必要な要件は、話しかけるようになってきました。少しずつの雪解けです。結果的には、2週間でM子の帰宅時間は、午後6時頃に戻り、私との関係も以前の状態に戻りました。

 子どもたちとの関わりで、時には、執拗なしつこさも、対応の方法として効果的な場合があります。バス停で待っていたあの時、じつは、2月頃でした。1年の中で最も寒い時期の夜、2時間も自分の帰りを待ち続ける大人、そして、何も言わず自分と向き合う大人、そんな大人に対して、子どもたちができることは、自分で何が正解かを導き出していくことです。あなたが、子どもたちに解答を与えてはいけないのです。子どもたちが解答を見つけ出していくお手伝いをしていくのが、あなたの役目なのです。

地道な努力

 H子は4歳で入所してきた女の子、主訴は、両親からの虐待です。特に父親からの身体的虐待は、精神的ダメージが強かったようです。
 虐待は、精神的ダメージだけではなく、成長の促進を阻害します。子どもたちは、身体的、精神的、情緒的な発達段階を経て成長していきますが、まず、最も基本となる、基本的信頼関係の構築が虐待によって阻害されてしまい、それは、幼児期のみならず少年期、青年期にも影響を及ぼします。
 H子は、大人不信であり、特に男性に対しては、強度の拒否反応を示します。衛生観念が欠如しており、自分の便を口にする異食、便を触った手をトイレの壁にこすりつける、お漏らししていても、平気な様子です。人と人との関わりである対人関係の持ち方が未成熟であり、目と目を合わせることが出来ず、面と向かって話しかけても、視線は、宙を舞います。注意散漫であり、次から次へと興味が変わり、その度に動き回ります。いわゆる、注意欠陥多動性の症状を顕著に表します。
 体型は、腹が、バレーボール大に膨れており、栄養失調の様態を示しています。脚気の症状もあり、同年齢児と比較すると身長・体重共に、平均値を大きく下回っています。
 基本的生活習慣は、習得しておらず、食事は、鷲掴みで食べ、就寝時間と起床時間は、不安定、早朝5時頃、起きたら、その瞬間から動き回ります。歯磨きも習慣化していないため、歯は、焦げ茶色で牙の用に細くなっています。
 自分にとって不都合なことがあると、大音響で泣き叫びます。物も壊します。自分の物と他人の物との区別がつかないので、手に触れた物は、破壊の対象になります。
 H子の動静は、周囲の子どもたちを最大限に不快にさせます。H子がイライラすると周囲の子どもたちもイライラが伝染します。家の中は、修羅場の状態になります。
 そんなH子に対して、担当保育士は、まず、基本的信頼関係の構築に向けて、常に一緒にいるようにしました。それは、自分の休みの日もです。そして、すべて、全面介助から始め、食事については、「はい、あーんして」と食べさせてあげることから始め、スプーンを持って食べる方向へと導いていきました。衛生観念は、お漏らししたり等で服を汚したら、すぐに、着替えさせてあげました。同時に、「おしっこやうんちをしたくなったら教えてね」と、話し、まずは、トイレに行くことではなく、したくなったら伝えると言うことを通して、便意に対する自覚を促していきました。
 基本的生活習慣については、本人が拒否しようと、就寝・起床時間、食事時間などのリズムを半ば強制的に本人に課していきました。歯磨きは、戦いです。保育士は、H子を抱きかかえ、開けない口をこじ開け、歯を磨きます。本人は、暴れるので、保育士は、生傷が絶えません。部屋の片付けは、イタチごっこ状態です。H子は散らかし放題、保育士が片付ける、また、H子が散らかし放題。この繰り返しです。
 私は、担当の児童指導員、勿論、保育士の補助的役割を行いますが、男性としての役割があります。それは、男性不信への緩和です。毎日1回以上、H子に「かわいい」と声を掛けます。H子は、無視します。毎日毎日、繰り返していき、次は、頭をなでるなど、身体に触れていきます。頑なな拒否反応を示します。しかし、その拒否反応も次第に弱くなっていきます。私が一寸寂しい思いをしたのが、半年位経った頃、H子の男性不信が少しずつ緩和され始めた頃、若い男性の実習生に初めて抱っこされたことでした。しかし、それが突破口になりました。最初の頃は、抱っこしても身体は硬直状態と言って良いほどでしたが、少しずつ、くつろいだ姿勢へと変化していきました。次の取り組みは、一緒にお風呂に入ることです。素直に抱っこされるようになった頃には、お風呂で、身体を洗わせてくれるようになっていました。
 1年後、まず目立つのは、体型です。身体的成長は、まだ、同年代の子どもたちに追いついていませんが、おなかの異常な膨らみは消え、スマートな体型になりました。歯は、1本ずつ生え替わり、牙から歯へと戻っていきました。表情も豊かになり、喜怒哀楽が明確になり、特に笑顔は、愛らしさがにじみ出てきました。食事は、箸を使って食べるようになり、トイレを使うことが当たり前になりました。
 この状態になるまでの保育士の献身的努力は、尊敬に値するものですが、それ以上に評価すべき事は、周囲の子どもたちの我慢でした。我慢の限界を超えることが度々ありました。特に学齢の高い子どもたちは、「きれる」と言う状態にもなりました。その中で、保育士からの説得もあり、H子の成長に協力していったのです。わたしは、素直に「すごい」と思いました。この子たちの協力が無ければ、1年間で、これほどの成長は見られなかったことでしょう。
 その後、幼稚園に通い、小学校に進級していきますが、基本的生活習慣は、確かに、地道ではありますが、習得していきます。しかし、注意欠陥多動性の症状の改善は、まだまだ時間を要し、学校では、トラベルメーカー的存在でした。授業参観の後の学級懇談会では、保育士と私の二人で、被虐待児についての説明を繰り返し、クラスの保護者への理解と協力をお願いし続けました。

 被虐待児に対しての対応は、一人だけの力では、不可能です。関わる大人、一緒に生活している子どもたち、学校のクラスメートとその保護者も巻き込んで対応していくことが大切です。また、心理療法士との協調体制も重要な取り組みの一つです。同時に児童相談所のケースワーカー、心理療法士と協力し合い、家庭改善への取り組みも行っていく必要があります。
 幾ら、H子が良い方向へ成長しても、家庭が変化していなければ、いつまで経っても家庭復帰はあり得ません。事実、H子の母は、拒絶の姿勢を見せていましたが、保育士と児童相談所の地道な取り組みで、面会に始まり、日帰り、1泊、2泊とH子と過ごす時間を少しずつ長くしていき、入所してから8年後、家庭復帰していきました。
 地道な努力が被虐待児を成長へと導き、あなた自身も成長していくのです。

苦手な子どもたち

 Sは、小学1年生の女の子、この子の担当保育士は、4年の経験を持つ中堅保育士でした。
 Sの特性は、認知障害傾向にあることでした。例えば、開いているドアの所に人がいる、通常は、その人にぶつからないように除けて通りますが、視空間認知症傾向のSは、平気でぶつかって通ります。その他にも状況変化に合わせた態度変更、運動制御機能、注意力・集中力、感情等のコントロールが不得手でした。知的にも軽度レベルでした。
 保育士と私(児童指導員)は、まず、前述した内容を精神科医から情報を得ました。精神科への通院で様々な検査を行っていきます。同時並行で、児童相談所の心理療法士によるセラピーです。この心理療法士が、とても熱心で親身になって取り組んでくれました。
 ここに、児童養護施設と精神科医、児童養護施設と心理療法士のチームが確立しました。更に、児童養護施設と学校担任のチームです。Sのケース検討会には、心理療法士と学校担任も常に同席していただきました。
 Sと言う女の子に対して、様々な専門家がアプローチを加え、Sは、少しずつ良い方向へと導かれていきました。
 さて、職員も一人の人間です。決して聖人ではありません。全ての子どもたちを分け隔てなく愛することは、困難でしょう。Sの担当保育士は、そのことで随分悩みました。何故なら、生理的に受け付けられない子どもの一人だったからです。気持ちを切り替える努力をしても、言葉や表情、態度に表出されてしまうのです。でも、それは、自分の内面の事情であり、Sには一切罪がありません。Sは、そんな保育士の内面を知ってか知らずか、保育士に対して執拗に甘えてきます。その甘え方がどん欲で、保育士が他の子どもを見ているだけで嫉妬心がわき上がってくるほどです。その表現は、大声で泣き叫び続けることでした。そんなSに保育士は、やさしい言葉で接し、時には、抱きしめ、時には、自宅へ連れて帰るなど、献身的にケアしました。これは、並大抵の精神力ではありません。生理的に受け入れられない子どもに対して、献身的に関わる保育士の姿は、正にプロフェッショナルです。そして、その事情を知っているのは、チームの一員である私だけでした。年度替わりが近づくと、保育士の心の中は、葛藤の嵐です。担当変更を申し入れるか退職するかどうかのです。結果的には、Sが中学生になるまで、担当を継続しました。
 この保育士は、私よりも若いのですが、尊敬の対象です。自分に打ち勝ち、Sへ愛情表現を継続していったのです。それは、偽善だとの捉え方もあります。しかし、私たち、福祉従事者は、時には、演技することも必要です。実際、私は、こどもを叱責する時、演技していました。叱責中に後ろから幼い子どもが話しかけてきたら、即座に笑顔で振り向き、「もう少し待ってね」と応えます。もし、演技ではなく、本気の場合、感情が高ぶり、叱責ではなく怒ってしまうと言う状態になる危険性を秘めています。怒るとは、感情の表現であり、それは、主観的になりがちです。それが、子どもたちにまっすぐに伝われば良いのですが、相手の感情を心で受け止めることが苦手な子どもたちにとっては、只の雑音になってしまいます。ですから、叱責は、叱責として、子どもたちに正確に伝えていく必要があるのです。保育士は、それを数年間持続していきました。

 あなたは、子どもたちを愛していますか、子どもたちとおつきあいしていますか、時には、関わりにくい、関わりたくないと言った感情に遭遇してしまったこともあることでしょう。しかし、それを自分の中で「悪いこと」と受け止め、心の奥底にしまっていませんか。それは、大きなストレスになり、場合によっては、精神が病んでしまうこともあります。あなたの感覚は、あなただけが体験していることではありません。先輩達もあなたと同じように悩み、苦しんでいたのです。自分一人で解決しようとしないで、信頼できる先輩とか、学校の恩師とかに相談するようにしましょう。他の人に話すことによって、解決の道筋に気づくこともあります。

方向性の模索

 Sは、中2女子です。IQは正確には測定していませんが100以上あると推定され知的発達は正常で、身体的には小柄ですが正常値の範囲内です。行動面では、対人緊張が認められる場面もありますが慣れると人なつっこく話しかける事ができます。只、注意散漫な部分が見られたり、困った状況になると寡黙になり涙ぐんだり、甘えや関心を引くような素振りを見せたりします。これは、虐待を受けた児童の言動特性と類似した部分があり、心理カウンセラーの働きかけに期待されますが、Sは、カウンセリングを受けると、決まったように途中で泣き出してしまい、心の中を開くことに対する逃避が見られます。従って、カウンセラーも苦慮しているのが実状です。健康面では、特に大病もなく医療的支援は要しませんが、顔色が悪く、S曰く貧血との事ですが、特に医療に関わっておらず血液検査等の実施が望まれます。
 さて、中学1年生までは、欠席も年に2~3回の出席率であり学校生活も楽しんでいる様子が窺われました。では、何がSを変化させたのか。
1.学習について
 小学校時代は、大きな学力の低下は、見られませんでしたが、中学校に入りSの自覚によると、授業についていけなくなったようです。
2.友人との影響
 中2になり特に顕著に表れたのが、友人と影響し合っての家出であり繰り返し行っています。一時期は、親元で3か月過ごし園に復帰するのに時間を要したこともありました。
3.家庭復帰への混乱
 Sの家庭復帰したいとの思い強く、関係者で協議、家庭復帰に向かって事が進んでいましたが家庭の都合で取りやめとなりました。Sは、園の子どもたちを始め学校の友人にも家庭復帰の話をしていたため、取りやめになった後の友人への修正に苦慮していました。
4.担任との関係
 家庭復帰の件は、担任を通して生徒たちにお知らせしてくださるよう園から依頼。ここまでは、良かったのですが、家庭復帰が取りやめになったため、この行為がSには、仇となりました。
 また、不登校が始まってしばらくは、登校刺激としてクラスの生徒が訪ねてきたり先生が家庭訪問したりしましたが、これも逆効果となりました。その上、学級の話合いの議題としてSの不登校を挙げたこともSの心的負担となりました。結果は、先生が家庭訪問してSと話をしても、顔を先生に向けることはなく、虚ろに返事をする態度に終始しています。
 まだまだ要因はあると思われますが、はっきりしていることは、様々な要因が複雑に絡み合い、その上、(-)の方向へと影響し合っていった事実です。不登校は、連続したものではなく、3週間ほど学校に復帰した時期がありますが、その時期の心のケアが不十分であったと反省しています。事実、再度不登校になった時、Sは、1週間ほど、寡黙状態に陥っていました。現在は、以前の明るさを取り戻し、朝晩は、園で過ごし昼間は、主に環境整備に従事している女性の臨時職員と共に過ごしています。時々、担当指導員から手伝いを依頼することもあり、それには、快く応じています。
今後の対応に向けて
 これからSにどのような形で支援を進めていくのか、園・学校ともに悩んでいるのが現状です。しかし、例えば、「そっとしておこう」との支援を進めるに対しても根拠や目標もなくやっているのであれば、只の放任になってしまいがちであり、支援者は、しっかりした意志と理念を持ってSの支援を進めていくことが望まれます。
 以下に今後の支援の方向性を導き出していきます。
○Sの学校生活での様子について担任教師と話し合い、不登校になった原因を探っていく作業を行います。
○学校教師・児相CW・カウンセラー・園の職員等、関係者が集いケア検討会を実施し、支援の方向性を導き出していきます。
○学力低下への支援として、Sは勉強に対して意欲を失っておらず、中1年の学科を中心に個別学習を実施します。
○Sが自分の考えを整理していけるよう、毎日定時に私との会話の時間を設ける。例えば、午後5時から10分間で私は、休日でも極力関わるよう努力する事が必要であり、もし、キャンセルする時は、Sに直接伝えるようにします。
○朝晩は、担当保育士、昼間は、私と時間帯による支援者をはっきりさせることによって情報の混乱を避けます。
○外部の機関を利用してみることも検討します。
 私たちは、Sの支援に向けて、現在の状況にばかり捕らわれずライフサイクルの中の一時期の出来事として捉え、Sの人生にとって、今何が必要かを見極めていくことが大切であり、Sと共に失敗を恐れず、色んなことにチャレンジしていく貪欲さが必要でしょう。

 結果的にSは、本人の希望通り家庭復帰を果たしましたが、学校に復帰することはなく、成人になりスナック等の接客業を転々としていました。Sの人生にとって、何が幸せなのか、どのような対応をしていれば、その幸せを掴み取ることができたのか、それは、S自身でさえ分からなかったことでしょう。そして、私自身も結局、Sの心の扉を開放することはできませんでした。
 しかし、その時、その瞬間、Sと私は、力の限りぶつかり合い、解決の方法を模索していました。後悔はありません。多分、Sも後悔していることはないでしょう。あなたの前にも様々な困難が立ちふさがりますが、一人で解決方法を探していくのではなく、子どもたちや同僚、そして、関係機関も巻き込みながら、協力し合って解決方法を導き出していってください。

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