虐待の謎~abuseとアタッチメント

BLOGOS 田中俊英 2015年3月06日
虐待ではなく、権力の濫用
虐待とは英語ではabuseであり、直訳としては「乱用」や「濫用」といった意味だ。「虐待」はどちらかという意訳に近く、この「濫用」のほうがそもそものabuseが伝えようとしていることに近いと思う。
では、何を濫用するのか。それは「力」あるいは「権力」を濫用するのだと僕は思う。誰の権力かというと、哲学的には「主体」の権力、虐待支援の現場でいうと、それは「親(保護者)」の権力ということになるだろう。
主体は、客体に対してその力を濫用する時がある。言い換えると、自己という主体は、他者という客体に対して、権力を一方的にふるう時がある。児童虐待の現場では、親という自己が、子という他者に対して、自分の持てる力を一方的に用いてしまう。
これが一般に児童虐待と呼ばれることなのだが、厚労省のホームページなどをみても、その児童虐待のリスク要因は細かくあげられているものの(表2-1 虐待に至るおそれのある要因(リスク要因))、そうしたリスク要因を持つもの(親/保護者)すべてが児童虐待をするわけではないと述べられている。
また、児童虐待の4種類(身体・性・ネグレクト・心理)も、そう聞くとなるほどすべてが虐待ではあるわなぁと説得されそうになるものの、あらためて考えると、ネグレクトとその他3種類の暴力はかなり異なる(放棄と直接攻撃)。
これらリスク要因と4分類をじっくりみると、abuseに至る道筋や種類については一応納得することができる。
主体(ここでは親/保護者)自身、主体の力をコントロールできない。その要因には多くのリスク(望まぬ妊娠・鬱やストレス・被虐待体験等)があり、結果としては直接攻撃か放棄という行為に出る。
リスク要因にしても4分類にしても、それらはabuseの結果生じる事態に対して後付でもってきた分析になっている。元々は「権力」の濫用abuseから始まるものだ。

なぜabuseが生じるのか
が、リスク要因はあげられ、その結果4分類を行なうことはできるが、元々の「では、なぜabuseが生じるのか」という問いにはなかなか応えることは難しい。
上の厚労省のページだけではなく、ほかのサイトでもその答えは難しいとある(たとえばこれ→「子どもの虐待はどうして起こるの?」)。ほとんどがリスク要因と結果分析は行うものの、そもそもなぜ「力の濫用」が生じてしまうのかには答えてくれない。
だから、いくら虐待をする親について、「リスク要因が重なれば誰にも起こりうるもの」と説明されたとしても、悲惨な児童虐待の事象を受け入れることができず感情的になってしまう人に対しては、説得できない。
リスク要因が重なったとしても暴力をふるう人とふるわない人がいるかぎり、暴力をふるう人が責められてしまうことは仕方ないかもしれない。
その「虐待」という結果を導く原因がもう少し一般化・論理化されない限り、虐待を行なう人物が個別に責められることは避けられないだろう。

アタッチメントとabuse
主体は、自らがもつ「力」をいたずらに使用する時、それはabuseとなってしまう。が、自分の力をコントロールできて対象がアタッチメントattachment/「付属品」として主体の大切な存在となった時、そのアタッチメントには「愛着」が生じる(心理学ではアタッチメントは愛着と訳される)。
もしくは、子ども(乳幼児)は、親/保護者に対して、自らがアタッチメントであるようふるまう。その振る舞いの結果、愛着が生まれ、親/保護者を虐待行為に走らせることはない。
2才までの養育環境の中で、こうしたアタッチメントとして大切に扱われるていると、その後安定した他者関係を築けるとされ、逆に被虐待体験によってアタッチメントが破壊されている(虐待されている)場合、その後の対他者関係が異常に不安定になるといわれる。
このように、力の濫用abuseは親/保護者が主体であり、アタッチメント/愛着を引き出す主体は子ども/乳幼児、という構図がある。
言い換えると、abuse(力の濫用/虐待)とattachment(付属品/愛着)は対称概念であり、前者の主体は親、後者の主体は子どもということになる(アタッチメントの主語は一見親だが、アタッチメントを形成させるという視点に変えると主語は子になる)。
abuseとアタッチメントは、お互いの目的のためにしのぎを削っている。abuseは親の権力の乱用、アタッチメントは子自らが親の付属品になることにより自らを守る、という目的だ。
アタッチメントについては理解しやすいが、abuseに関してはここでもイマイチ理解しにくい。
なぜ、親/保護者は、子に対して自らの権力を濫用するのか。
子が不要なのだろうか。あるいは、子が「増えすぎる」ことが不要なのか。
この「謎」をさらに追求するためには、「種としてのヒト」についての研究にまで手を伸ばす必要があるのでは、と僕は思い始めた。生物学や進化論の見方を導入しなければ、「虐待の謎」は解けないのではないだろうか。★
※Yahoo!ニュースからの転載

園児閉じ込め、ひもでつなぐ 別府の保育所行政指導

大分合同新聞プレミアムオンライン Gate 2015年3月7日

別府市の認可外保育所で昨年夏以降、30代の男性職員が特定の園児を物入れに閉じ込めたり、騒がしいときなどに迷子防止用のひもでつないでいたことが6日、関係者への取材で分かった。県は「児童の人権について十分な配慮を欠いていた」として、口頭と文書で改善を指導した。男性職員は1月末で依願退職している。
県や園によると、男性職員は昨年夏から1月にかけ、泊まり保育などを受けた2~5歳の園児3人に対し、複数回、ベビーベッド下にある物入れに閉じ込めたり、食事中などに騒いだ際は迷子ひもでつないだ。必要以上に大きな声で「走ってはいけない」などと指導したことや、注意をするときなどに丸めた新聞紙で体をたたいたこともあった。
保護者によると、3人の園児にけがはなかったが、当時は男性職員の足音におびえたり、園に近づくと泣きわめき、「(今も)ショックを受けている」と話している。
男性職員は閉じ込めたり、ひもでつなぐ際、同僚の50代女性職員=1月末で退職=に相談していたという。
県は保護者からの通報を受け、2月に園や職員らを調査。「児童の人権について園全体の認識が甘い」とし、今月3日、園に改善を指導した。今後も定期的に立ち入り調査を続ける。
園は今後、保護者説明会に加え、全職員を対象に子どもの人権や幼児保育の在り方を学ぶ研修会を定期的に開く。園長は、「行き過ぎた行為で、責任を感じている。指導を真摯(しんし)に受け止め、改善に向けて取り組んでいく」と話した。

保育所側の過失認定、賠償命じる…うつぶせ寝死

読売新聞 2015年3月6日

福島県郡山市の無認可保育所で5年前、当時1歳の女児が死亡したのは、うつぶせで寝かされ毛布で覆われるなどして窒息したためだとして、両親が当時の園長や保育士らに計約6600万円の損害賠償を求める訴訟があり、福島地裁郡山支部は6日、保育所側の過失を認め、約5700万円の賠償を命じる判決を言い渡した。
亡くなったのは、同県須賀川市の会社員津久井利広さん(44)と妻れいさん(35)の長女りのちゃん。上拂(うえはらい)大作裁判長は「うつぶせ寝の危険性は保育関係者の間では周知されていたが、日常的にうつぶせに寝かせる重大な怠慢があった」と指摘。りのちゃんは毛布などの重さで寝返りが難しい状況にあったとして、死因は窒息死と認定した。
判決によると、りのちゃんは2010年1月8日昼、泣き始めたため、保育士が布団にうつぶせに寝かせた。バスタオルのほか、全身を覆うように四つ折りの大人用毛布をかけ、背中や腰には円筒形に巻いたタオルケット二つを置いた。約40分後、ぐったりしているところを発見され、搬送先の病院で死亡が確認された。

生活保護者にジェネリック薬をすすめる深い理由

Mocosuku Woman 2015年3月6日

ジェネリック医薬品(後発医薬品)をご存知ですか?
新薬は、長い研究開発期間を経て、安全性・有効性を確認し、国の認可を受け発売されています。先発医薬品です。この特許期間が終わると、他の企業も同じ有効成分の薬を作れるようになります。これが後発医薬品、つまりジェネリックです。メリットは、開発研究のコストが抑えられるので、価格は新薬の2~7割と、格段に安くなります。

日本で利用が進まないワケ
ところが、日本ではジェネリック医薬品の利用が進んでいません。公的保険制度のないアメリカでは薬の9割がジェネリック医薬品、ドイツでは8割、イギリスでも7割なのに対し、日本では4割。
理由のひとつに、医療関係者がジェネリック医薬品の品質や安定供給などに不安を感じていることがあるといわれています。そこで、医療費の軽減のため、厚生労働省はジェネリック医薬品の使用を促進することにしました。

医療費負担を減らす効果
生活保護者受給者の医療費は全額公費負担となりますが、それがじつは保護費用全体の半分にあたります。その中で薬代が約2,000億円ですが、ジェネリック医薬品を使えば、その金額を減らせるのです。
各自治体は医療機関や薬局に、ジェネリック医薬品への切り替えを促進していますが、結果は都道府県によってばらばらです。
そこでついに厚生労働省は、国全体としてのジェネリック医薬品の数量シェアを、平成30年3月末までに60%以上にあげるという具体的な数値目標を設定しました。

ジェネリック医薬品を使うには
まずお医者さんに「その薬をジェネリック医薬品にしてもらうことはできますか?」と聞いてみましょう。
次に、薬剤師に処方箋を渡すときに「ジェネリック医薬品にできますか」と相談してください。お医者さんが処方箋の「変更不可」という項目をチェックしていなければ、ジェネリック医薬品に変えられます。
薬局の外に「ジェネリック医薬品を扱っています」という表示をみかけることが増えましたが、それは薬局でも薬を選べるということだったのです。有効成分が同じジェネリック医薬品でも、価格に差があるものもあります。

利用者9割!アメリカの場合
アメリカのFDA(米国食品医薬品局)は、昨年、注意欠陥多動障害(ADHD)のジェネリック医薬品の二つは、患者によって効果が現れるのが遅くなる可能性があると発表しました。
当局は二つの会社に対し、半年間製品を市場から回収し、改善するように命じています。この例からもわかるように、アメリカにおいてジェネリック医薬品が9割も使われているのは、安心な環境が整っているからだ、ともいえるのです。
国内でのシェアが、6割になるとき、ジェネリック利用者の満足がより高くなることを期待しています。

<防衛省設置法で議論に> 憲法から見た「文民統制」と「文官統制」 首都大学東京准教授・木村草太

THE PAGE 2015年3月6日

防衛省設置法改正案には、防衛省の内部部局の官僚が自衛官より優位に立つ根拠とされた「文官統制」規定の廃止が含まれている。今回の改正については、「文民統制(シビリアンコントロール)が弱まり、制服組に対する抑制が利きにくくなる」といった批判がある一方、「文民が軍人への最終的な指揮権を有することには変わりがなく、批判はあたらない」との見方もあり、評価が分かれている。そもそも、憲法に規定されている「文民統制」とは何なのか。憲法の見地からは、「文官統制」の廃止をどう見るべきなのか。憲法学者の木村草太・首都大学東京准教授に寄稿してもらった。
防衛行政の組織再編が検討されている。その中で、「文民統制」と「文官統制」という言葉が出てきた。ややこしいが、少し解説しておこう。

憲法における「文民統制」とは何か?
憲法66条2項には、次のように書いてある。「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」。つまり、日本国家の行政・外交のトップである内閣のメンバーは、「文民」でなければならないと定めているのである。
「文民」とは、一般に、元軍人ないし現役軍人でない人をいう。日本には、海外での軍事活動を行う「軍隊」はない。しかし、現在の自衛隊は、防衛行政を担う行政機関の一種とはいえ、相当な装備の実力組織だ。このため、自衛隊のOB・OGや、現役自衛官は「文民」でないとの解釈も有力である。実際の運用では、現役自衛官が閣僚になった例はないが、元自衛官が閣僚になったこともあり(現在の中谷元防衛大臣も、元自衛官である)、その合憲性については議論がある。
では、なぜ憲法は、文民統制を定めているのだろうか。
一般的な行政事務と比較して、軍隊や自衛隊のような実力組織の業務は、特殊かつ専門性が高い。命を懸けた作戦に参加することもあって、組織の中に強い絆も生まれる。このため、実力組織の内部には、独自のルールや価値観が生まれる傾向がある。
しかし、軍隊や自衛隊の運用は、外交にも国民生活にも大きな影響を与えるから、組織内部のルールや価値観だけで、それを動かすことは好ましくない。そこで、軍隊や自衛隊は、外部の人のコントロールを働かせなければならない、と憲法は定めているのである。

「文官統制」の廃止が意味するものは?
ところで、軍隊や自衛隊のトップに「文民」を置いたとしても、実際に「文民」が軍隊や自衛隊を統制することはかなり難しい。これは、自衛隊の人たちが、文民の指示をまもらない、愚かな人物だからではない。むしろ、その逆だから、文民統制は難しいのである。
自衛官は、国民のために命をかけて職務に臨む覚悟を持った人たちであり、自然と人々の尊敬を集める。さらに、自衛隊の運用には、特殊で専門的な知識が要求される。尊敬される英雄であり、かつ、専門知を持つ秀才のそろった自衛隊幹部たちの議論や要求を、「文民」が批判的に検証するのは難しい。
そこで、現在の法律では、内閣が自衛隊を指揮・運用する場合には、防衛省の官房長や局長、事務次官など、官僚の補佐を受けるルールになっている。専門知識を持つ「文官」に補佐してもらうことで、文民統制を実のあるものにしていこうという考え方である。これが、「文官統制」と呼ばれる仕組みである。
現在、政府は、この文官統制の仕組みを廃止して、文官の補佐なしに、大臣と自衛官のみで直接コミュニケーション可能な仕組みを作ろうとしている。もちろん、そうしたとしても、自衛隊の最高司令官は内閣総理大臣であり、憲法の要求する文民統制に明らかに反し違憲だとは言いがたい。
しかし、自衛隊の運用は、外交関係、政府の予算、国民生活に大きな影響を与える。文官統制をやめることで諸外国に不信感を与えないか、「文官」の補佐がなくても「文民」が適切な判断をできるのか、意思決定の合理性を十分に国民に説明できるのか、憲法が文民統制を定めた趣旨に照らし、慎重に検討すべきであろう。国民は、政府の説明に注意深く耳を傾けていかねばならない。