げんこつはアウト? 子育てママが悩む「しつけ」と「虐待」の線引き

アメーバニュース  2015年10月14日

【ママからのご相談】
年中の娘に、しつけとして“お尻ペンペン”をしています。これを虐待だとは思っていませんが、無意識に旦那や他人の前でしていない自分に気がつきました。どこか後ろめたいと感じているのだと思います。
“お尻ペンペン”や“ゲンコツ”などは、古き良き日本のしつけだと考えてはいるのですが、ささいなことでも、「虐待だ!」と騒がれる昨今ではあまり大きな声で言えない主張でもあります。虐待としつけのボーダーラインはどこにあるのでしょうか?

A. ママが普段しているしつけは、果たして本当に“しつけ”なのでしょうか?
ご相談ありがとうございます。ママライターの木村華子です。
平成25年度に全国の児童相談所が対応した児童虐待相談対応件数は73,765件。この数値は年々増加傾向にあります。厚生労働省が定義する虐待には『身体的虐待』のほかに『性的虐待』『ネグレクト』『心理的虐待』があり、いわゆる“体罰”以外の虐待も含まれているのですが、身体的虐待(体罰)自体の件数も数を増やしているのは事実です。
相談者様のおっしゃる通り、昨今ではささいなことでも、「虐待だ!」と騒がれる世の中なのかもしれません。そんな背景が、相談対応件数の増加に関わっている一面もあるのでしょう。しかしその反面、虐待によって命を落としてしまうような悲しい事件も起こっています。もしかするとその中には、純粋に、「しつけのためだった」と考えている親も存在しているのかもしれないですね。
たとえ発端がしつけであっても、大切なわが子を傷つけてしまったのであれば、それは紛れもない虐待です。自分が普段しているしつけは、果たして本当に“しつけ”なのでしょうか……。今回は、虐待としつけのボーダーラインについて考えてみましょう。

“お尻ペンペン”や“ゲンコツ”は虐待なのか?
『虐待』と言い表せば犯罪ですが、“お尻ペンペン”や“ゲンコツ”と表現すれば何故かソフトな印象を受けます。
厚生労働省の公式サイトで『児童虐待の定義と現状』を確認したところ、身体的虐待には、

殴る、蹴る、投げ落とす、激しく揺さぶる、やけどを負わせる、溺れさせる、首を絞める、縄などにより一室に拘束するなど

と記されていました。この定義で考えれば、“お尻ペンペン”や“ゲンコツ”も虐待に含まれるように感じます。
しかし、多くの人は母親が子どもにゲンコツをするシーンを目撃しても通報はしないでしょう。ゲンコツには、どこか親の愛情のようなものさえ感じることもありますね。やっていることは“頭を殴る”という動作であるのに、虐待だと感じない方も大勢いらっしゃるはずです。

Q.“お尻ペンペン”や“ゲンコツ”を虐待だと考えますか?
これらが虐待に当たるのか否か、子育て中のママに問いかけたところ、以下のような意見がありました。

虐待だと感じる派
・『虐待だと思う。実際に、私は子どもにゲンコツをしてしまう。感情的になってから手を出していると自覚があるので、いつもものすごく後悔する。また、体罰で言い聞かせた内容は大抵聞こえていない様子。ゲンコツしてもしなくても、言うことを聞くときは聞くし、聞かないときは聞かない』(20代・ママ)
・『子どもには絶対に手を上げたくない。たとえお尻ぺんぺんやゲンコツでも、虐待はいいこととは言えない。暴力で言うことを聞かせようとすることは、子どもの考えを完全に無視した支配だと感じる』(30代・ママ)

虐待だとは思わない派
・『虐待とは思わない。必要であれば、体罰してでも教えなければいけないこともある。もちろん程度は弁えるべきだし、自分勝手な理由で手を出すことは良くないけれど、たとえば誰かを傷つけてしまったときや、危険なことをしようとしたとき、ママが本気で怒っていることを伝えるすべとして上手に付き合うべきだと思う』(30代・ママ)
・『自分が子どものころは、親にも先生にもゲンコツくらいされていた。大人を怖いと感じていたけど、その恐怖心があったからこそ道をそれずに成長できたと感じることもある。あのときの私のように、子どもが正しくないことをしたときは、手を上げてでも教えなきゃいけないこともあると思う』(30代・ママ)

どちらでもない派
・『どちらとも言えない。ケースバイケースでしつけにも虐待にもなると思う。でも、“ゲンコツやお尻ペンペンは虐待じゃないですよ”って決めてしまうと、程よくできないタイプの親が、「虐待じゃないから!」と過度な暴力に走りそうで危険だと感じる。だから、一応虐待だと決めてしまう方が子どもの安全を守れるのではないか』(20代・ママ)

お尻ペンペンやゲンコツを虐待だと感じるか否かは、ママ本人が育ってきた環境や経験によっても大きく異なってくるようです。実際、“しつけだと思う派”と“虐待だと感じる派”は半々である印象を受けました。

わが子を“自身の手”から守る、安全なボーダーラインを持ちましょう
しつけと虐待のボーダーラインは、その人その人で異なってしまいます。大切なわが子を“ママの手”から守るためには、ママ自身が安全なボーダーラインを持っていなければいけません。
私個人の考えでは、お尻ぺんぺんやゲンコツを虐待だと思いません。しかし、これらの体罰が日常化するようでは問題があるのではないかと感じます。
確かに、子どもたちは時々予測不可能な悪さをすることがあるでしょう。場合によってそれは、誰かを危険にさらしたり、傷つけたりしてしまう恐れがあることも……。言い聞かせるだけでは予防ができない場合、ゲンコツが飛んできたって仕方のないケースもあるかもしれません。
しかし、そういった場面も毎日頻繁に起こるわけではないはず。悪さの内容によっては、言ってきかせれば十分であったり、子どもの事情に耳を傾ければ逆に親側が納得してしまうことだってあります。「悪いことをした子どもが悪い」「これはしつけだから」というママ・パパの言い訳が、しつけを虐待に変えてしまうのです。
子育てをしていれば、子ども相手にカッとなってしまうことが多々ありますね。そんなときこそ、体罰を一番遠くに忘れてしまうべきなのではないでしょうか。
相談者様は、なぜご主人の前でお尻ペンペンをしないのでしょう? 子どものために行うしつけであれば、誰に見られても恥じることはないはずです。もしも頻繁に体罰を繰り返してしまっているのであれば、手をあげる前に、「今、パパがいても同じように怒れるか」を思い出してみてください。
本当にこれってしつけなのかな? と、時に立ち止まってみることも必要なのではないでしょうか。

「夜の居場所」提言へ ひとり親家庭支援も 子の貧困対策 来年3月、計画決定

琉球新報 2015年10月17日

県の「子どもの貧困対策推進計画(仮称)」の策定に向けて、外部有識者らでつくる「県子どもの貧困対策に関する検討会」(会長・山入端津由沖縄国際大学教授)が16日、県庁で開かれ、計画に盛り込むべき施策案をまとめた。全国に比べて多いひとり親家庭への自立支援や、深夜徘徊(はいかい)を防ぐために児童館や学童保育所など子どもの夜の居場所づくり、給付型奨学金制度の拡充、家庭の問題をすくい上げるスクールソーシャルワーカーの配置の充実などが盛り込まれた。11月に知事に提言書として手渡す。
検討会はこれまでに4回会議を実施し、各委員が県内の状況や課題、必要な支援を提言してきた。施策案には、これらの意見が取り入れられた。今後、知事を議長とする「県子どもの貧困対策推進会議」が、施策案を反映する形で計画素案を策定する。県は年内にも計画素案のパブリックコメントを実施し、来年3月に計画を決定する。
施策案では、貧困問題を自己責任論ではなく、社会全体の問題として取り組む必要性を指摘し「今後は貧困対策の先進県に持っていく必要がある」としている。そのために、行政と民間が協働し、予算面の充実も必要であるとしている。支援につながらない家庭に積極的に働き掛ける個別対応の必要性も挙げている。
教育支援として就学援助制度の申請期間の延長などを求めている。貧困状態の子どもたちは自己肯定感が低いことから「学力の保障とともに、自己肯定感を高める支援も必要だ」と指摘。多忙な教員の負担軽減を求めている。学習支援やスクールソーシャルワーカーなど、支援する側について、ボランティアに頼るのではなく報酬を与えることや待遇改善などの措置も検討するよう求めている。
生活面では、小学校区ごとの児童館設置や児童養護施設の退所児童の自立支援、乳幼児健康診査の未受診家庭への切れ目のない支援を求めた。
同検討会は、児童養護施設の代表、生活困窮世帯やひとり親世帯、子どもの居場所づくりなどに取り組む支援者、児童養護施設の出身者、小児科医ら12人で構成されている。

多様な価値観が単一な価値観を否定するという矛盾 — おときた 駿

アゴラ 2015年10月14日

こんばんは、おときた駿@ブロガー都議会議員(北区選出)です。
本日は日曜日で官公庁や施設・事業者などのアポイントが取れないため、オランダ内の移動と大使館からレクチャーを受ける座学の日でした。
オランダでは児童福祉の他に、LGBT・同性婚法制化や安楽死の容認など、「多様性」において先進的な政策を見る予定ですので、今日はそちらの話しをば。
マリファナや麻薬の一部、果ては売春まで合法化するなど、オランダのイメージはとにかく「寛容」「自由」という方が多いのではないでしょうか?
これは歴史的に、現在のオランダと呼ばれている地域には国王も宗教もない時代に多様な人々が移り住み、伝統的に多文化政策主義が取られてきたことに背景を持つようです。
そんなオランダは、2001年に世界で初めて「同性婚」を法制化した国として有名です。
この動きをきっかけにEU・欧州全体でLGBTの権利が認められはじめ、今では数々の国がオランダの動きに追随しています。
こうした家族の在り方・生き方に寛容であれば、オランダはまた「死に方」にも寛容な考えを示します。
難病などで生きる見込みが少なく、医療ケアが苦痛でしかない人が、自ら死を望んだ場合に許容する「安楽死」については、様々な議論がある中でまだ多くの国で実施が認められていないのが現状です。
オランダでは1973年に実の親を医師が安楽死された事件をきっかけに国民的な議論が始まり、ついに2002年に所謂「安楽死法」が可決されました。
・患者からの任意かつ熟慮された要請がある
・圧倒的に医療的な苦しみがある
・他に合理的な解決策がない
・独立した医師によるセカンドオピニオン
などの条件を満たした時に、医師によって投薬や注射による安楽死が認められるもので、2012年には4,188人がこの「良き死に方」を選択。
これが年間死亡数の約2.8%にあたるそうです。
安楽死が原則として認められていない我が国では、高齢患者がほぼ意識を失い、それでも本人以外の意志によって延命されている実態がありながら、なお国民的な議論が起こるには至っていません。
一方のオランダでは、最近ではなんと
「終身刑の受刑者が望んだ場合、安楽死は認められるか否か」
という議論が一部でホットイシューとなっているそうです。
なんというか、一周二周という単位じゃないくらい先を進んでますよね…。

こうした生き方から死に方に至るまで、一言で言えば「多様な価値観」を認めることにオランダの特徴があると言えます。
一方で当然、上記のような同性愛や安楽死の許容といったリベラルな価値観とは間逆な考え方を持つ人々もいます。そう、厳密な戒律を持つ「ムスリム」の方々です。
では彼らの考え方も、「多様な価値観の一つ」としてオランダ社会は快く受け入れることができたのでしょうか?
現時点での答えは、残念ながら「No」のようです。
多様な価値観を許容し続けてきたはずが、それを否定する「単一な価値観」を持つムスリムに対する反感が高まってしまい、その価値観を排除するという現象が起きています。
2001年に起きた9.11テロ以降、特にトルコ人ムスリムへの風当たりは強く、就業などに苦戦しその失業率は一般的なオランダ人の5倍以上となっており、社会問題化しているとのこと。
この事実は、今後の社会運営を占う上で非常に重要な示唆に飛んでいます。
「多様な価値観を認めよ!」という主張のはずがいつのまにか、自分たちが良しとする価値観の押し付けになってしまう。
これは誰しもが陥りやすい、落とし穴ではないでしょうか。
古来からあらゆる宗教・人種に寛容であったオランダですら、例外ではなかったのですから。。

昨今の移民・難民問題も混ざり合い、オランダは1つの正念場を迎えています。
彼らがこの局面をどう乗り切るのか注視するとともに、
「異なる価値観の共存とは何か」
「多様性を受け入れるとは、どういうことか」
を、いま一度考えなおさなければならないと強く感じる次第です。
例えば、、
「男女は平等だ」と誰もが思っている世界が健全なのか。
「男の方が女より偉いに決まっている」と思う人も許容するのが、豊かな社会なのか。
皆さまは、どのようにお感じになりますか?
私自身も視察の中で、答えを考えていきたいと思います。

もう「下流」なのに「中流」だと言い張る日本人!ー誤った「中流意識」が社会の発展を阻害する!?

Yahoo!ニュース 2015年10月17日

皆さんは自分自身の生活の程度を他と比較して、「上」「中」「下」で表してみるとどこに当てはまるだろうか。
例えば、上流階級、中流階級、下流階級、どこに位置づくだろうか・・・。
セレブ、庶民、貧民、どの分類だろうか・・・。
実は、平成26年度の内閣府の世論調査によれば、「中」のなかで、「中の上」「中の中」「中の下」に当てはまると答えた人が約90%を超えている。みんな程度の差はあれ、未だに「一億総中流」であると思っているのかもしれない。
皆さんはどうだろうか。
何をもって中流意識なのかと言えば、多くの場合は世帯や自身の所得が多いか少ないかが決定要因になるだろう。
ワークライフバランスなど、働き方が家事や育児をしやすいようになっているか否かも検討事項かもしれない。
十分な余暇があることも要因として大事かもしれない。
いろいろな要素があるだろう。
ここでは実際に分かりやすいように所得のみに絞って見てみたい。
平成25 年の1世帯当たり平均所得金額は、「全世帯」が528 万9 千円となっている。また、「高齢者世帯」が300 万5 千円、「児童のいる世帯」が696 万3 千円となっている。(平成26年国民生活基礎調査 厚生労働省)
上記の所得は目安であり、世帯人員数などを省くが、このあたりは「中の上」か「中の中」あたりの生活と言えるかもしれない。
しかし、全世帯の所得金額階級別世帯数の相対度数分布をみると、「200~300 万円未満」が14.3%、「100~200 万円未満」が13.9%及び「300~400 万円未満」が13.4%と多くなっている。
そして、中央値(所得を低いものから高いものへと順に並べて2等分する境界値)は415 万円であり、平均所得金額(528 万9 千円)以下の割合は61.2%となっている。(平成26年国民生活基礎調査 厚生労働省)
実に平均所得金額(528万9千円)を61.2%の世帯が下回っているのである。
皆さんの世帯の所得は、平均にいかないまでも、中央値の415万円はあるだろうか。
この所得程度である場合、「中の中」「中の下」といえるかもしれないが、さらに所得が低い場合は確実に「下」に当てはまるだろう。
そして、都市部では所得は高いが、地方では所得は低い傾向にある。地方では「下」に当てはまる世帯は都市部よりも多いはずである。
先ほどの生活の程度を聞いた世論調査に戻りたい。
「中」のなかで、「中の上」「中の中」「中の下」に当てはまると答えた人が約90%を超えている。
「下」と答えた人は4%程度しかいない。
他の要素を考えずに所得のみで捉えると、相当数の人が「下」の暮らしを強いられていることが容易に予想される。
それにも関わらず、「下」が4%というのは異常ではないだろうか。
しかし、当人に聞いてみると、おそらく「生活は苦しいけど普通じゃないか」、「大変だけど自分は「中の下」程度ではないか」と答えが返ってくるかもしれない。
この希望的な見解も含んだ”ぼんやりとした中流意識”が何をもたらすかと言えば、現行の社会システムの温存である。
そして、「自分は頑張っているから「中の下」なのだから、頑張らないと「下」になるのは当然だ」というような意識ではないだろうか。
攻撃の矛先はより弱い対象へ向かい、さらなる努力や義務を課すような意見も出てくるはずである。
わたしは社会システムや社会政策が貧困や生活のしづらさを生み出しているにも関わらず、そのシステムの変化を望まない人を見てきた。
さらに、自身の所得が低いにも関わらず、より弱い生活保護利用者や低年金高齢者を「自己責任論」で批判する人を見てきた。
批判する人たちも含め、実は多くの人たちが「下」に至っている社会において、「下」同士で内輪もめしている場合ではないと思う。
皆さんの生活は本当に「中」なのだろうか。3段階でハッキリ区分けしたら「下」にならないだろうか。
ワーキングプア、非正規雇用、長期失業者、引きこもりの若者、低賃金労働者、ブラック企業、長時間労働、母子世帯、下流老人など、生活課題を有する人々は増え続けている。生活に困っている人は相当数に及ぶ。
しかし、それらの人々が”ぼんやりとした中流意識”を持つ限り、社会に変化を求めることはない。この”ぼんやりとした中流意識”を打破しない限り、貧困層や生活課題を持つ人々がまとまり、社会システムを再編していく力にはならないだろう。
厳しいかもしれないが、「下」の生活であることを自覚し、社会や政治を変えるように働きかけてほしいと思っている。
「下流老人」(朝日新聞出版)という用語もあえて、この階層を意識してもらうために用いた言葉である。
もはや多くの人が中流ではないことを知り、中流であるように、あるいは中流であり続けられるような社会システムを構築し直していきたいと思う。