【ここにいるよ 沖縄 子どもの貧困】施設卒園、18歳で就職「専門学校行きたかった…」

沖縄タイムス 2016年1月19日

虐待など、さまざまな理由で、親元で暮らせない子どもたちが集団で生活する児童養護施設。県立高校3年のナオキ(18)はこの春、施設を出て独り立ちする。
県外のホテルチェーンに就職が決まっている。こつこつと就職活動を続け、勝ち取った内定だが、「生活費なんかが大変だと聞く。やっぱりまだ施設を出たくない、という気持ちのほうが強いかな」。不安そうに胸の内を吐露する。
児童福祉法に基づき、児童養護施設にいられるのは原則18歳までと決められている。施設の子どもたちは親らの経済的な後ろ盾がないまま高校を卒業すると自立を余儀なくされる。

「本音を言えば、専門学校に行きたかった」
ナオキの夢は、西洋料理のレストランを開くこと。そのために県内の調理師専門学校へ行くことを望んだが、かなう環境ではなかった。
幼いときに両親が離婚し、父親の元で育った。父親は「口より先に手が出てしまう人」で、しつけとして、ナオキや弟に手を上げた。ナオキは小学3年から、児童養護施設で暮らす。
父親は建築関係の仕事をしているが、経済的なゆとりはなく、進学のための資金援助はできないと言われた。親類にも頼れず、貸与型の奨学金は後の借金になる。そう考えて、就職の道を選んだ。
就職先を選ぶ決め手となったのが寮が付いていることだった。アパートを借りるとなれば、家賃や保証人の問題が出てくるからだ。
県外に決めたのは、「厳しい環境の中で自分を鍛えたい」という思いのほか、金銭を要求してくるかもしれない父親を避けるためでもあった。

県によると、児童養護施設に入所する子どもの家庭の25%が生活保護世帯、65%が市町村民税非課税世帯で、低所得世帯が9割を占める。経済的に親に頼れない子がほとんどで、ナオキのように高校卒業後、就職の道を選ぶ子が約7割に上る。
県内で、児童養護施設出身者を対象にした学資・生活費支援の動きが広がりつつあるが、まだ十分ではない。また、いったん就職しても、離職する子の割合が高い。県児童養護協議会の調査では、就職した子の4割近くが1年以内に辞めていた。
虐待された子の中には、心に深い傷を負い、自分や他人を信じられず、仕事でのちょっとした失敗で挫折したり、困ってもSOSが出せない子がいる。児童養護施設を退所した子が自立するためには、経済的サポートとともに、卒園後の、きめ細かい継続したアフターケアの充実が必要だ。(文中仮名)(「子どもの貧困」取材班・高崎園子)

我が子を虐待する親の「悲しい真実」~「バカな親がバカなことを…」で済ませてはいけない!

現代ビジネス 2016年1月19日

わが子に対する虐待・ネグレクトが後を絶たない。児童相談所に寄せられる虐待の相談件数は年間8万件を超える。センシティブな報道を前に、私たちは虐待・ネグレクトをする親たちに「あり得ない」「どうかしている」といったような怒りにも似た感情を抱く。しかし、虐待・ネグレクトの問題は親だけの責任なのだろうか。その親を取り巻く家族や社会背景を丁寧に紐解いた『ネグレクト―真奈ちゃんはなぜ死んだか』、『ルポ虐待―大阪二児置き去り事件』の著者であるルポライター杉山春氏が、現代社会の「親のあり方」を考察する。前編では、3つの事件の親たちの生育歴や置かれた環境、虐待・ネグレクトに至るまでの過程に迫る。

親としての過剰な「生真面目さ」
わが子をネグレクト死させるような親は、「不真面目」で、どうしようもない人間である。そんな考え方が一般的ではないだろうか。
私自身、虐待が起きるメカニズムを知る前は、そう思っていた。だが、虐待事件を取材、執筆する中で、親たちには共通して、過剰な「生真面目さ」があることに気づくようになった。
最初にネグレクト事件と向き合ったのは、2000年12月に愛知県武豊町で、21歳の両親が3歳の女児を段ボール箱に入れて、餓死させた事件だ。父親は、大手製鉄会社の子会社の正社員で、母親は専業主婦だった。
この事件は、児童虐待防止法が施行されて1ヵ月もしないうちに起きた。私は、NHKの依頼で、地域の公的機関がこの親子の存在を知りながら、なぜ救えなかったのかを検証するために現地に入った。
その2年前の9月、19歳だった父親は、同い年の母親が生後10ヵ月の娘の足を揺すぶって遊んでいるところに割り込んで、その足を持って体全体を激しく揺さぶった。父親がなぜ、そのような行動に出たのかはわからない。
これは虐待の一つの形で、「乳幼児揺さぶられ症候群」という。その結果、幼いわが子は、柔らかな脳が頭蓋骨のなかで激しくゆすぶられ、硬膜下血腫を起こし、手術を受けることになった。
入院は37日に及んだが、その間、母親は熱心に子どもに付き添った。泊まりを代わってもらったのは、自分の父親に1度だけ。夫が泊まりに来た時には、簡易ベッドを明け渡し、自分はバスタオルを床に敷いて寝た。当時、彼女は妊娠していた。
退院後も、家から病院までの長距離を、バス代を節約して自転車で通い、医師に言われた通りに受診させた。この時期、家族が増えることを考え、家計簿もつけている。こうした働きは、母としての熱心さと「生真面目」さだ。
一方父親は、職場では、まだ若く給料はあまり高くなかったが、評価は受けていた。収監された後も仕事のことを気にしていた。彼にも仕事に対する「生真面目」さがあった。

孤立無援の中、怒りをぶつける先は娘しかいない
夫婦は幼いときから、ネグレクトや身体的虐待を受けて育った。二人は10代で長女を出産したが、それよりも前に、夫の母親の強い反対で一人目の子どもをおろしている。妻は義母に強い反感を持っていた。
娘は退院後、発達の遅れが出た。父親はその頃から、娘を邪険に扱うようになる。家ではゲームに没頭した。裁判では、小学校の頃からいじめなど嫌なことがあっても、ゲームに没頭してやり過ごしてきたことが明らかになっている。母親は、思い通りに成長をしない娘に悩み、家に様子を見に来る保健師に、会わせなくなった。
同じ頃、長男が生まれたが、夫婦は発達の良い長男を可愛がり、長女を疎ましく思うようになった。娘を家族が過ごす居間ではなく、北向きの3畳間に閉じ込めて育てるようになる。
一方、夫の母親は突然家に来て、長女を自宅に連れ帰った。祖母の家で過ごすと長女は発達を見せ、祖母に懐く。母親はその娘に、祖母への憎悪を重ねてさらに疎ましく思う。家族内の人間関係が子育てを難しくする。親の愛情を得られない娘は、あまり食べず、痩せていく。母親は自分の子育てを反省し、娘を連れて病院に連れて行った。医師に助けを求めたわけだが、医師はネグレクトだと判断ができず、公的支援につながらなかった。
夫は裁判で、「男性は仕事、女性は家事育児」という強い役割分担意識を繰り返し表明した。妻は、夫に子育ての相談には乗ってもらえず、さらに育児意欲を低下させていく。幼いときから、実母からはネグレクトを受けており、困難なときに助けてもらったことがない。実母にも危機を伝えられない。
孤立無援の中で、買い物依存が起き、消費者金融の返済が滞った。裁判所から呼び出しがあり、夫が相談に乗らなかったため、大げんかになる。不安のなかでさらに日常生活への意欲を低下させ、家がゴミ屋敷の状態になった。しかし、その事実を認識する力も失っていく。
娘が親に逆らう態度を示すと、夫婦は娘の行動を規制するようになる。娘をダンボール箱に閉じ込めた。言葉にならない周囲への怒りが無意識に娘に向かう。夫婦が力を及ぼすことができる対象は、我が子のみだ。親の関心を失って食べなくなった娘は、やせ細り、ダンボール箱のなかで、絶命した。

完璧な母であろうとし、助けを求めることができなかった
武豊町の事件から10年後、2010年7月に大阪市西区で、3歳と1歳の姉弟が、近くの風俗店で風俗嬢として働く母親に50日間放置されて変わり果てた姿で発見された事件を取材した。この母親も、「生真面目さ」が際立つ。
母親が20歳、21歳の専業主婦として過ごした町を歩くと、「子育ては、若いのにしっかりしていた」という声が聞こえてきた。裁判に出廷した元夫も元姑も、家事育児はよくやっていたと評価した。
高校教師でラグビー部の監督をしていた実父のためには、練習ではマネージャー同様の働きをし、合宿では早朝から部員の母親たちに混ざって朝食を作った。この当時の彼女の専業主婦としての完璧な生活ぶりに圧倒された。
ただこの時期、すでに消費者金融などに借金をしていた。裁判でなぜ、生活費が足りないと夫に相談しなかったかと尋ねられて「よい奥さんだと思われなくなるから」と答えている。この母親が良い奥さんだと思われるために、日常を組み立てていたことがわかる。
さらに二人目の子どもが生まれて、唐突に母親の浮気が始まった。困った夫が招集した家族会議の席で、1日で離婚が決まる。出席していたのは、夫とその両親、母親の父親とその恋人の6人だった。この席上、母親は誓約書を書いた。

・子どもは責任をもって育てます。
・借金はしっかり返していきます。
・自分のことは我慢してでも子どもに不自由な思いはさせません。
・家族には甘えません。
・しっかり働きます。
・逃げません。
・うそはつきません。
・夜の仕事はしません。
・連絡はいつも取れるようにします。

22歳のシングルマザーが働きながら2歳と生後7ヵ月の子どもを育てるには、無理がある内容だ。
裁判で誓約書を書くことになった経緯を問われて、自分の意思で書いたものではなく、「そこにいた皆から言われた気がした」と証言している。
この誓約書の内容が母親を縛ったのではないだろうか。約束を守れない母親は、子育てがうまくいかなくなったとき、自分の困難を元夫側や父親側に詳しく伝えて、助けを求めることができなかった。

解離性障害―受け入れたくない現実から目をそらす
この事件の母親も、幼いとき、実母からのネグレクトを受けて育っている。実父は離婚後、シングルファザーとして3人の娘を育てたが、一方、ラグビー部監督として何度も全国大会に部員を導いた。取材では、「食事をしっかりさせて、親の後ろ姿をみせておけば、子どもは育つと思っていた。娘の悩みをじっくり聞いてやることはなかった」と語っている。
この母親は、小学校時代までは、父親の自慢の「娘」だったが、中学時代に非行化した。中学時代、家出を繰り返し、友達や先生とも安定した関係が作れなかった。激しい性的な行動があり、輪姦体験もある。
こうした環境下で、解離性障害の傾向があった。厚生労働省のホームページには「解離性障害とは自分が自分であるという感覚が失われる状態」「つらい体験を自分から切り離そうとするために起きる防衛反応」とある。幼い子どもが、命にかかわる危機に直面し、それを体験しているのは自分ではない、別の誰かだとすることで、生き延びていく身の処し方の癖ともいえる。
そうした癖を身につけると、思春期になっても、自分の向き合うべき課題と直面できなくなる。厚生労働省のホームページには「治療では、安心できる環境にすること、家族や周囲の人の理解」が必要だとあるが、この母親の生育歴はそのような環境ではなかった。
この母親は、離婚後、名古屋のキャバクラで働きながら子育てをしたが、子どもは思いがけず熱を出す。思うように稼げなかった。自分自身が新型インフルエンザにかかったと思った時、元夫や自分の父親に助けを求めたが、急に子どもは預かれないと断わられた。息子の1歳の誕生日には、誰からも連絡がなかった。
その一週間後に恋人を作り、子どもだけ家に置いて恋人と過ごすようになる。元家族には頼れないと自覚した時、男性に頼ることで生き延びようとした。この時期よりも少し後、公的機関に子どもを預けたいと1度だけ連絡をしているが、支援にはつながらなかった。
さらに、大阪の風俗店に移り、働き始める。子どもたちは託児施設に預けず、部屋に置いたままだった。10代で性暴力を体験していた母親は、客から本番を求められると受け入れた。もちろん、本来は拒否できる。だが、彼女は、性的な場面で、拒否をすればさらに強い暴力にさらされるという経験をしている。性的アプローチを受け入れてやり過ごすことが彼女の身の処し方だった。
つまり、この母親にとって風俗嬢として働くことは、繰り返し性被害を体験することに等しいことだったと推察される。
その間、ホスト遊びに手を出し、金が返せなくなる。SNSの中ではおしゃれで楽しげな生活を表現する一方で、風俗店の寮に子どもたちを隠すように置いて、男性の元を転々とし、借金の取り立てから逃げた。ネット上で楽しげな姿を示すのは、仲間たちから落ちこぼれたくないという彼女の強い思いの表れだ。彼女は周囲にSOSを出して、子育てがうまくいかない母親である自分自身を人に見せることができなかった。
完璧に子育てをする自分でなければ、隠す以外にない。50日間、放置されて子どもは亡くなった。

社会に不信感を抱きつつ、その規範に過剰に従う
2014年5月に神奈川県厚木市のアパートで、7年前に5歳で亡くなった男児の白骨遺体が発見された。シングルファーザーで子育てをしていた父親はトラック運転手だった。月に50~60時間の残業をこなし、職場での評価は、上位20%が当てはまるAランクだった。職場にも実家にも、一人で子育てをしていることを伝えていなかった。
妻が出て行ったのは、子どもが3歳のとき。その後、昼夜雨戸を閉め切った真っ暗闇で子育てをした。外から見られたくなかったという。子どもが部屋を出て行かないように、扉に粘着テープを張って閉じ込めた。自分の惨めさを誰にも悟られたくないかのようだ。
妻の月5万円の携帯電話代を1年間払い続けるなど、経済的な混乱があり、ライフラインが止まった。その異様な環境で過ごす息子の元に、この父親は2年間毎日帰り、1日2回、コンビニで買った500mlのペットボトルの飲み物とパン1個とおにぎり1個を与え、同じ布団にくるまって寝た。
この父親には知的なハンディがあったことが裁判で明らかにされた。さらに、小学生のころに、実母が統合失調症を病んでいた。精神を病む親に育てられた子どもたちもまた、独特のハンディを持つことが知られている。何重にも重なるハンディを抱えて、それでも、自己流ではあるが、与えられた場で精一杯、仕事と子育てを両立さようとした。それは「生真面目」さ以外の何物でもない。
こうした3組の親たちに共通するのは、社会の規範に過剰なまでに身を沿わそうとして、力尽きてしまう痛ましい姿だ。本来なら到底実現できようもない目標を自ら設定し、達成しようとする。
3つの事件の親たちの背景をみれば、全員が子ども時代、ネグレクトや暴力的な環境で過ごしている。
子ども時代に十分に周囲の大人たちに自分の気持ちや意見を聞いてもらえないまま育った。育ちの過程で強い社会への不信を抱える。社会への不信は、自分への不信でもある。人に尊重されることを知らない。自分が周囲に物を言っていいということを知らない。環境を変える力があることを知らない。
その上でもっとも力が及ぼしやすい我が子を思い通りにしようとする。虐待を受けて育った人たちの3割が連鎖すると言われている。だが、子どもを虐待死させてしまう親の場合は、100パーセント虐待を受けて育っている。
自尊心が低下した親たちは、社会で最も強く流通している価値観をなぞろうとする。その規範から出ていくことができなくなる。

後編につづく。