「恋愛至上主義」になる教育困難校の生徒たち

東洋経済オンライン 2017年1月13日

教育困難校」という言葉をご存じだろうか。さまざまな背景や問題を抱えた子どもが集まり、教育活動が成立しない高校のことだ。
大学受験は社会の関心を集めるものの、高校受験は、人生にとっての意味の大きさに反して、あまり注目されていない。しかし、この高校受験こそ、実は人生前半の最大の分岐点という意味を持つものである。
高校という学校段階は、子どもの学力や、家庭環境などの「格差」が改善される場ではなく、加速される場になってしまっているというのが現実だ。本連載では、「教育困難校」の実態について、現場での経験を踏まえ、お伝えしていく。
年末年始、テレビや新聞では家族だんらんや故郷への帰省を当たり前のように取り上げているが、今の日本では実際はそれらとまったく関係のない家庭も多い。「教育困難校」のほとんどの生徒の家庭がまさにそうであろう。

「家族」に強いあこがれを持つ
「教育困難校」の生徒には幼い頃から、年末年始を家族一緒にゆっくり過ごすという習慣はない。サービス業に従事し非正規社員であることが多い親は、ほかの人が働きたがらず、そのために時給がよくなるこの時期こそ稼ぎ時であるし、生徒自身も同様の理由でアルバイトに忙しい。
子どもの最高の楽しみであるお年玉も、故郷から切り離され、もらえるような親戚付き合いをしていないので、親以外からもらった経験がない生徒もいる。その親からもらうお年玉の金額も、物心ついた頃から同額でまったく上昇しないという。確かに、今の高校生が小学生低学年の頃にリーマンショックが起こっており、彼らは好景気の時期を知らないのだ。
結局、年末年始も特別ではなく、家族がいつもより少し忙しく、いつもどおりバラバラに行動し、空いている時間はスマホに熱中することになる。テレビドラマやCMなどから、家族だんらんはすばらしいものらしいという一般的な価値観は漠然とキャッチしながら、その実態を体験できない「教育困難校」の生徒は、「家族」に強いあこがれを持っている。

恋愛に向かっていくエネルギー
そのうえ、無条件に親から愛されているという確信が持てず、つねに愛情渇望状態にもある。親からの愛情はいくら待っていても得られないとわかると、愛情を注いでくれる新しい対象を求め始める。思春期真っ盛りの高校生たちは、恋愛に異常なまでに関心を持ち、実際に行動する。
「教育困難校」の生徒たちに将来の夢を尋ねると、「若いうちに恋愛結婚して、子どもを3~4人作って温かい家庭を築く」といったステレオタイプの回答が非常に多い。さらに、「専業主婦になって子育てし、子どもに寂しい思いをさせない」「子どもをたくさん産んで、子どもにいつもやさしい親になる」といった、自分のこれまでの寂しさを吐露するような発言も多く出てくる。いずれにせよ、少子化対策に悩む政府にとってはありがたい人たちだろうが、彼らの夢の実現は、現実にはかなり困難である。

ねずみ花火のような恋愛
近年、若者を「草食系」と「肉食系」に区分する見方が流行しているが、「教育困難校」の生徒たちは、どんなに普段はおとなしくとも基本的に「肉食系」であり、それどころか「恋愛依存系」とも言うべき状態である。それがなければ生きられないのかと思うほど、彼らが言うところの「恋愛」をひっきりなしに繰り返す。
望んでも得られない親からの愛の代わりを求める彼らの「恋愛」は、誰かと出会うと一瞬にして「恋愛」と思い込み、後先を考えずに無軌道に行動し、すぐに終わる。まるで、ねずみ花火のような恋愛だ。
新しい恋人ができたとうれしそうに報告する女子高校生に、彼にいつ出会ったのかを尋ねると3日前などと答える。「顔が、Hey! Say! JUMPの○○に似てるから」とか「最初に会ったとき、落ちたマフラーを拾ってくれてすごく優しかったから」といった理由で、すぐに恋に落ちる。
前の彼といつ別れたかを聞くと、1週間前などと答え、その元カレとは3週間付き合ったと言う。数日だけの付き合いという生徒も少なくない。別れた理由は、「なんとなく」という自分でもわかっていないような理由が最も多いが、「LINEがすぐに戻ってこない」「お互いにほかの人が好きになった」といったものから、「ちょっとしたことでけんかしたらカレシがDVした」などの深刻なものもある。
自身の家族関係の中に、恒常的・安定的な愛情の形を見ることができなかった彼らは、一度「恋愛」モードに入ると、何のためらいもなく愛情が怒濤のようにあふれ出す。そして、相手の事情を考えず相手からも同量の愛情を求め、何か問題が起こるとそこで突発的に終わってしまう。2人で話し合い行動して問題を解決し、よりよい関係を長期間築いていこうという考えは、なぜかほとんど生じない。

女子生徒の妊娠事件
相手にもっと愛されたい、あるいは拒むと嫌われるかもしれないと性交渉を持つ。これだけ性に関する情報が流れ、また、いくつかの教科で教えていても、妊娠を回避する策を取れればよいほうで、後先考えず欲望のままに行動することが多く、妊娠する女子高生は少なくない。「教育困難校」に勤務した経験のある教員で、女子生徒の妊娠事件に出合わなかった人はいないだろう。秘密裏に処理される数は、想像もつかない。
ある女子生徒の休みが増え、保健室の利用回数や、体育授業の見学が多くなると、ベテラン教員はおかしいと注意するようになる。顔や身体全体は細くなることもあるが胴回りがふっくらしてくると、本人に確認する。すると本人は拍子抜けするほどあっけなく認める。高校生なのに妊娠してしまったという罪悪感はさほどないからだ。その後、家族を呼んで善後策を講じることになるが、このときまで親は気づいていなかったという例がほとんどである。

実は中退を望んでいる高校
学校側としては一応、女子生徒に高校を続けてほしいとのスタンスで臨むが、当の本人は「カレシが結婚しようって言うから」と中退して産むことを選び、親も「子どものやりたいようにさせたい」と言って止めようとしない。学校側も、この道を選ばれると内心ほっとする。産んで高校生活を続けたいとなると、生まれた子どもをどうするか、ほとんどの場合、里親を探すか児童養護施設に預けることになるのだが、その方法を公的な情報に疎い親子と一緒に模索し、説明しなければならないからだ。
数ヵ月後のある日、その元生徒が赤ん坊を抱いて高校にやってくる。学校中を移動しながら、次々と顔見知りの教員に子どもの顔を見せて回る彼女の顔は幸せに輝いている。傍らには、戸惑い顔の年若い有職青年が手持ちぶさたに立っている。結婚式は挙げていなくても、書面上正式に結婚して新しい家族ができた彼女は、自分の人生の最高の目標を果たし、まさに絶頂の時なのだ。
この時代に、夫婦ともに高校中退であることや夫が不安定な職業に就いていることなどから生じる将来への不安は、彼女の頭にはよぎりもしないようだ。彼らの今後の生活の不安定さが見えてしまう教員は、今の彼女の幸福感・高揚感が少しでも長く続くように祈るしかない。

「親にはなってはいけない大人」が我が子を殺すまで ルポ・厚木市幼児餓死白骨化事件

現代ビジネス 2017年1月13日

本日、東京高裁で二審判決
電気も水も止まった真っ暗な部屋に、齋藤理久君(5歳)は2年強にわたって閉じ込められ、鍵のかけられたドア前で必死にこう呼び続けていた。
「パパ、パパ……」
父親は、齋藤幸裕(38歳)。2004年の10月から、幸裕は働きながら、1人で長男の理久君を育てていた。だが、彼は少しずつ帰宅する回数が減り、2年後には3、4日に一度ないしは、1週間に一度くらいまで減っていた。その間、理久君は暗い家の中で腹を空かせて震えていたのである。
そして2007年1月、真っ暗で凍てついた部屋の中で、理久君はTシャツ一枚でうつぶせになったまま絶命したのだ。
今日、2017年1月13日、斎藤幸裕の二審の判決が、東京高裁で下される。一審では懲役19年だった。
一審の判決が出た後、私は幸裕に心境を聞くべく、横浜拘置所で面会を行った。すると、幸裕は透明なアクリル板ごしにこう言った。
「俺は、理久を殺してません。理久を愛していたし、ちゃんと育てていました。なのに、なぜ俺だけ懲役19年なんて判決なんですか。間違ってますよ!」
この事件は、発生から七年後の2014年に発覚し、父親のネグレクト(育児放棄)事件として社会を震撼させた。情報番組も雑誌も、幸裕が子供に愛情を持てない鬼畜同然の父親であるかのような語調で報道をした。
だが、私が面会した際、幸裕はネグレクトによる殺害を否定した。自分は息子を愛していたし、世話をしていた。決して意図して殺したのではないと言い張ったのだ。
ネグレクトは一般的に、親が子供に愛情を持てないことが原因で起こるとされている。だが、幸裕同様に、ネグレクト事件を起こした親たちの中には、堂々と「愛していた」「育てていた」と主張する者は少なくない。
いったい、なぜなのか。
拙著『「鬼畜」の家~わが子を殺す親たち』(新潮社)で、私はこの事件における「ネグレクト」の意味を描いた。
虐待に関する言葉が一人歩きしがちな今、齋藤幸裕の二審の判決を前に、もう一度この事件を通して「ネグレクト」の実態を考えたい。

育児放棄したのは妻の方だった
1978年、齋藤幸裕は神奈川県の横浜市で生まれ、小学校に上がる年から厚木市に引っ越した。父親は大手企業の工場に勤務。3人兄弟の長男だった。
幸裕は高校を卒業した後、契約社員として働いている時に、高校2年生だった女性と付き合いはじめる。間もなく、女性は家出をして幸裕のアパートに転がり込み、高校を中退。そして18歳で幸裕と「できちゃった結婚」した。この時に誕生した長男が、事件の被害者・理久君だった。
幸裕夫婦は、それなりに理久君をかわいがっていた。妻は専業主婦で親族などはそばにおらず、日中は1人で世話をしていた。一方、幸裕はトラックの運転手をしていて会社での評価は常に「A」。生真面目なことで知られていて、早く帰って来られる日があれば理久君をお風呂に入れたり、遊びに連れて行ったりしていた。
そんな一家が狂いだすのは、理久君が生まれて約1年半後のことだ。妻が「遊びたい」「お金がほしい」と言い出すようになり、幸裕に内緒で本厚木駅前の風俗店でアルバイトをはじめるのである。そのことが幸裕に知られ、夫婦の間にはケンカが絶えなくなった。そしてその約2年後の2004年10月、妻は夫と理久君を家に残し、何も言わずに失踪した。
幸裕は1人で理久君を育てなければならなくなった。当時、幸裕は実家との関係が悪く育児を頼めず、かといって児童相談所の役割もよくわかっていなかった。それで1人で育てるしかないと決心。夜明け前から毎日10数時間働きに出ている間、理久君を家に置き去りにすることになる。
もともと彼は生活意識に乏しく、粗雑な人間だった。マンションは料金滞納によって電気、水道、ガスが止まり、部屋には足の踏み場もないほどゴミがあふれた。それでも幸裕は料金を振り込もうとせず、真っ暗で臭い部屋に帰ってきては、公園で汲んできた水で理久君の体を洗い、おむつを取り替え、1日1度の食事セット(おにぎりやジュース)を与え、自らも同じ布団で眠ったのである。
先述したように、事件後彼は私にこう言った。
「俺は、理久を殺していません。理久を愛していたし、ちゃんと育てていました」
もし真っ暗で冷たい部屋に理久君だけを置き去りにしていたのなら、罪を軽くしたいだけの弁明だと断じられる。だが、彼は2年以上にわたって理久君と同じ部屋で添い寝して暮らしているのである。これが彼なりの「普通の生活」だったのだろう。
一方、家出をした妻はどうしたのか。
彼女は都内の風俗店で働きながら、ホスト遊びに興じていた。しかも、ホストクラブでの支払いが幸裕に回るようにしていた。結果として、幸裕と理久君の生活をどんどん困窮させていく。つまり、育児放棄していたのは、妻の方なのだ。
幸裕がこうした生活に嫌気がさすのは当然だ。幸裕は美容専門学校に通う女性と付き合い、度々ラブホテルで外泊するようになる。既婚であることや理久君がいることは内緒にしていた。週に一度の外泊が2、3日に一度になり、やがて1週間帰らない日もあった。女性の方も本気で幸裕を愛し、美容院に就職後は結婚も考えていたという。
2人の関係が深まれば深まるほど、理久君が放置される時間は長くなっていった。幸裕が初めて有給休暇を取って東京ディズニーランドにデートへ行った翌月、理久君は数日間暗い部屋に放置された末、父親の帰りを待ちわびながら絶命するのである。
検死の結果、理久君は少なくとも死の2、3ヵ月前から栄養失調状態に陥って死亡したのではないかとされた。

カブトムシに餌を与えるように
横浜地裁で裁判が行われたのは、事件の発覚から約1年半後の2015年の秋。警察が逮捕し、起訴したのは斎藤幸裕だけだった。家族を捨てて、ホスト遊びをくり返して生活を困窮させた妻は、事件に直接関与していないとして罪を問われなかった。
横浜拘置所で、幸裕が私に「なぜ俺だけ懲役19年なんて判決なんですか。間違ってますよ!」と叫んだのは、こうした不条理からだったのだろう。理久君を死に至らしめたのは幸裕だが、その原因をつくったのは妻だと言えるからだ。少なくとも幸裕の立場に立てば、「なぜ俺だけが」と言いたくなる気持ちはわからないでもない。
しかしながら、多くの人にとって、幸裕の行動は納得のいくものではないだろう。
どうして彼は養護施設に理久君を預けなかったのか。
ライフラインの止まった部屋で2年以上も暮らして平気だったのか。
「育てていた」と言うが、本気でそう思っていたのか。
事件を防げるポイントはいくつもあった。だが、そうならなかったのは、幸裕自身が「正しい生活」「正しい養育」の概念をまったく持ち合わせていなかったためだ。
詳しいことは拙著『「鬼畜」の家~わが子を殺す親たち』を読んでいただきたいが、主な要因は母親の重度の統合失調症にあった。幸裕が小学生の頃に母親は病気を発症して異常な行動を繰り返した。家の中に何十本ものロウソクを立てて火を点けて「悪魔が来る」と叫ぶ、大騒ぎしたあげくにベランダから外に飛び降りて瀕死の重傷を負う……そんな日々だった。
しかも父親は外出ばかりで妻に構わなかった。長男だった幸裕は毎日のように母親の不条理な言動に向き合い翻弄されなければならなかった。妹や弟を守ったこともあるだろう。こうした家に、「普通の日常」はなかった。それゆえ、彼は「正しい生活」「正しい養育」が何かを知らないまま大人になったのだ。
彼が理久君を追い詰めた原因としてはそのことが大きい。
普通であれば、ライフラインの止まった部屋で2年以上も暮らそうとは思わないだろう。だが、彼にとっては「大して困ったことではなかった」のだ。
また、彼は理久君を家に閉じ込めていたが、それは「交通事故」から守る行為であり、「1ヵ月に一度だけ公園へ連れて行」けば、十分養育していることになると思い込んでいたのだ。食事にしても、まるでカブトムシに餌を与えるように、思い出した時だけ「食事セット」をあげれば十分だと信じていた。
これは、自分自身が母親にそうされてきたからだろう。当時の幸裕は小学生になっていたから、その状況でも生き抜くことができた。だが、3歳~5歳だった理久君には自ら状況を打開する手立てはない。そして事件は起きたのだ。
読者の中には、幸裕を「知的障害者」だと考える人もいるかもしれない。だが、裁判の鑑定では、彼に知的障害がないことが明らかになっている。あくまで異常な幼少期の中で「正しい生活」「正しい養育」の概念がなくなった結果なのである。
ここで思うのは、「正しい」とは何だろうということだ。
私たちは家庭の中で様々なことを親に教えられながら、自分なりの基準を形成していく。1日3食とる、夜は電気をつけてお風呂に入る、服が汚れたら着替える、幼児を置いて親が遊びに行かない、週に何度か子供を公園へ連れて行く……。これらは生活の中で身につけ、大人になって実践するものだ。だが、そうした体験がまるでなかったら、その人は親になってどう子育てをするのか。
斎藤幸裕とその妻のことを深く知る女性は私にこう語った。
「あの2人は親になっちゃいけない人間だったんです。大人だからって親じゃないんです。大人でも親になっちゃいけない大人っているんです」
私が幸裕に「本当に理久君を育てていたつもりなのか」と尋ねた時、彼は堂々とこう答えた。
「育ててましたよ!  ちゃんとやってました!」
本気で彼がそう思っているのならば、間違いなく彼は「親になってはいけない大人」だろう。
私はルポルタージュの中でこういう「親」が一定層いることを明らかにした。その親たちを批判するのではなく、どう理解してサポートするかというところでしか、事件は防ぐことはできないと思う。

「仕事一筋」パパが妻を亡くして直面したこと

東洋経済オンライン 2017年1月13日

「ひとり親世帯」と聞くと、「母子家庭」を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。しかし実際には、シングルファザーが支える「父子家庭」も、直近の2011年調査時点では1988年対比で1.3倍に増え、現在は約22万世帯あると言われています(厚生労働省「母子世帯等調査」)。シングルファザーはいったいどのような悩みを抱え、それを乗り越えているのでしょうか。今回、2人のシングルファザーが取材に応じてくれました。

昭夫さん(仮名・55歳・商社勤務)
老舗の専門商社に勤務する昭夫さん。現在は、取締役営業本部長、開発部長、グループ会社の取締役、海外グループ会社の取締役を兼ね、これまで順調に出世ルートを歩んできました。しかし、仕事ばかりの人生を送ってきたわけではありません。家庭では、2人の子どもを育てるシングルファザーでもあるのです。
昭夫さんがシングルファザーになったきっかけは、妻の病死でした。昭夫さんが地方に単身赴任していた2008年、妻に子宮頸がんが見つかったのです。以来、会社に頼んで勤務地を地元の栃木に変えてもらい、闘病生活に懸命に寄り添いました。しかし、その2年半後に妻は他界。当時、息子は高校1年生、娘は小学校の卒業式を1週間後に控えていました。

「野菜の切り方もわからない」父が妻を亡くして……
妻を失った昭夫さんを待っていたのは、家事、育児、仕事をひたすら繰り返す「猛烈生活」です。それまではワーカホリックで「家事などしたことがなかった」という昭夫さん。最初は料理を作ろうにも、タマネギの切り方すらわからないという状態でした。それでも、育ち盛りの子どもたちには出来合いのお総菜ではなく、なるべく手作りの食事を食べさせたいという一心で、懸命に料理を覚えました。週末の接待ゴルフも最低限に抑え、「子ども優先」の日々が始まったのです。

出世と家庭、どちらを取るか
「テレビを見るヒマすらなく、自家用車も試乗せずにインターネットで買った」という嵐のような毎日を過ごす中、唯一の楽しみは、土曜日の夕食の仕込みが終わってからの1時間、近所の居酒屋でタイムサービスのビールを飲んでぼーっとすることでした。
父子で暮らし始めて3年が経ったころ、会社から「本部長として東京本社に戻ってこないか」という昇格の打診がありました。妻の闘病を理由に地元栃木の営業所に異動したときは、「まるで都落ちしたような、複雑な心境だった」という昭夫さんにとって、願ってもないチャンスでした。
けれども当時、娘はちょうど高校受験前。転勤についてきてもらうことはできません。そこで自宅に亡き妻の両親を呼び寄せ、自分は東京で単身赴任することにしました。
これでひと安心、と思いきや、今度は子どもを預けた義母が倒れてしまいます。子育てを義理の両親に頼むこともできなくなった昭夫さんが始めたのは、「平日は都内で会社員」「週末は地元栃木で主夫」という生活です。食べ盛り、育ち盛りの子どもたちのため、週末に栃木に帰ると、1週間分の家事を一気にこなします。食事は、生協の宅配サービスをフル活用し、レンジでチンすれば食べられる状態まで仕込み、毎日のお弁当も「あとは詰めるだけ」にします。そうして、平日には再び都内に舞い戻るのです。
こうした綱渡りの日々をどうにか回すだけでもいっぱいいっぱいのはずですが、加えて学校でのルールや親のコミュニティがさらに負担をかけます。「特に苦労したのが娘の部活のお弁当でした。当時、部活の顧問の先生の方針で『買い弁(外で買うお弁当)禁止』だったのです。『なぜ? うちみたいな家庭もあるのに、それってないよね?』と、怒りすら覚えましたが、仕方ありません。何とか対処しました」(昭夫さん)。

PTA総会では「絶対に当たらないでくれ」と冷や汗
さらに、「毎回、冷や汗をかいたのはPTA総会です。抽選でいや応なくPTAの役割が決まってしまうので、いつも『絶対に当たらないでくれ』と祈るばかり。『交通安全母の会』というものがあり、自分にも役が回ってきて、やらざるをえない。平日の朝の8時前後、出社前に参加しました。周りはみな母親ばかりで完全なるアウェー状態。かといって事情を話すのも面倒で、隅っこで縮こまっていました」(同)。
そんな昭夫さんを助けてくれたのは、意外にも「ママ友」たちでした。「子どもたちの様子も心配だったので、恐る恐る妻の友達ネットワークだった『ママ友の飲み会』に参加してみたんです。子どもたちの状況を教えてほしいと頼むと『学校ではこんなふうに頑張っているのよ』という話を聞けたんです。正直、居心地はよくありませんでしたが(笑)、情報収集ができて安心しました」(同)。

娘の初潮に、反抗期
このママ友ネットワークは、男親には難しい娘の思春期の子育てにも大いに役立ちました。「娘の生理が始まったとき、どう対処すればよいかわからず、ママ友に相談しました。アドバイスどおりに近所の洋服屋さんに生理用の下着を買いに行き、そっと娘に渡しました。反抗期で口もきいてくれなくなった娘の対処法も知ることができました」(同)。
家事・育児に全力で臨みながら、会社でも出世の道をあきらめなかった昭夫さん。「子どもたちが最優先」という姿勢は維持しつつも、「会社でも、やるべきことはやって、実績だけは出し続けました。だからこそ、会社も昇進の機会を与えてくれたのだと思います」(同)。
シングルファザーになって7年。昭夫さんはこれまでの人生をどう振り返るのでしょうか。
「とにかく無我夢中でしたが、自分は逃げませんでした。父子家庭だからといって、会社で『大変なんだ』と弱みをみせるのも何か違う、と感じました。自分よりもっと大変な人はほかにもいるからです。ここまでやれる原動力は、子どもたちを一人前にしたい、という思いです。そして、仕事をしっかりやったからこそ、子どもたちを守れるし、子育てもできたのだと思います」(同)。
昭夫さん自身、実は2年前からがんを患っています。今は抗がん剤で治療をしながら、働き続けています。

妻の精神病で離婚も、引き取られた娘に虐待!?

浩志さん(仮名・56歳・文筆業)
離婚をきっかけとしてシングルファザーになったのが浩志さんです。現在は社会人として独立している娘が、まだ小学生だったとき、ひとり親になりました。
浩志さんは、高校時代からの付き合いの女性と結婚をしましたが、その妻が精神的な病に悩まされるようになり、離婚。娘は自分が引き取りたいと申し出ましたが、家庭裁判所では一方的に「子どもはお母さんに」と言われてしまいました。
そうして母親と同居することになった娘ですが、数年が経過して小学校の高学年に差し掛かったころ、浩志さんの元へ家出してきました。実は、娘は母親から虐待を受けていたのです。キッチンマットの上に裸で寝かされたり、激しい罵声を浴びせられたり……。それを知った浩志さんは、娘への申し訳なさから「一生かけて大切に育てよう」と決意し、シングルファザーになりました。
浩志さんの職業は、文筆業。当時はフリーライターだったため、比較的時間の融通が利き、家事も好きだったという浩志さん。しかし、自営業である分、自分で仕事を取らなくては稼げません。そんな父親に対し、娘も気を遣っていたようです。
「今思えば、運動会や学芸会など、学校行事がいろいろあったはずなんですが、1回も行ったことがありません。娘は行事について何も言わなかったし、案内も見せなかったんです」(浩志さん)。娘が「仕事を頑張ってほしい」という意味で、あえて何も言わなかったのでは、と推測しています。
浩志さんには、娘との思い出深いエピソードがあります。「母の日に、父親である自分にカーネーションをプレゼントしてくれました。本当にうれしくて、一句詠みました。『娘から 父がもらった カーネーション』――。これが大手飲料メーカーの俳句賞に選ばれ、ペットボトルのラベルに載ったんです」(同)。

元妻が餓死
そうして2人の生活が軌道に乗り始め、娘が高校3年生になったとき、思わぬ事態に直面しました。離婚した妻が亡くなったのです。理由は、餓死という信じがたいものでした。ショックを受けた浩志さんは、自暴自棄になって貯金を使い果たしてしまいました。「おカネがなくなっても死ねばいい、くらいに思っていたんです」(同)。
そんな状態の浩志さんを現実に引き戻してくれたのは、娘さんでした。「娘が有名美大の推薦枠に合格し、『この子を大学にいかせねば!』と、ハッとしたんです。自分はどうなってもいいが、娘には将来があります。そこで、自分から営業をかけて、ライターとして必死に働き始めました。『娘を大学に行かせねばならない。だから仕事をください』と頭を下げ続けると、仕事が舞い込んできました」(同)。
こうして必死に育て上げた娘さんは、無事に大学を卒業。今では結婚もしています。子育てを終えた浩志さんが今、これまでを振り返って感じることとは。

「父親だって、子どもを育てられると主張したい」
「自分ではわかりませんが、世間から見るとわが家はうまくいっているようです。それは、自分が時間の融通が利く自営業だったからかもしれません。家庭裁判所の判決では悔しい思いをしましたが、父親だって、育児環境や働き方さえ確立すれば、子どもは十分に育てられる、ということを主張したいです」(同)。
今回の取材を終えてわかったのは、「育児は母親、仕事は父親」という固定観念が、シングルファザーにとって大きな壁になっているということです。冒頭で述べたように、「ひとり親」という言葉からイメージされるのは、あくまでシングルマザーで、その数が多いのも事実です。
それまでどんなに仕事一筋だった父親でも、ひとり親になることで「子ども優先」の生活に切り替えて、四苦八苦しながら家事や育児に力を注ぎます。
しかし、学校行事やPTAなどの活動は、あくまでフルタイムで働いていない母親の参加を前提にしたものが少なくありません。父子家庭の場合に限らず、共働きの家庭も増えてきた今、そろそろこうした子育てモデルから卒業することが必要なのかもしれません。

日本人の1割が患うアトピー性皮膚炎 “かゆみ“の治療に新たな道か

AbemaTIMES 2017年1月13日

いまだ根本的な治療法が確立されていない、アトピー性皮膚炎。今、その治療に新たな道が開かれようとしている。
アトピー性皮膚炎は、日本人の1割前後が患っているとみられている病気で、これまでの研究で「IL-31」という物質が過剰につくられることで起こることが分かっていた。しかし詳しいメカニズムは未解明で、根本的な治療法は確立されていなかった。
そんな中、九州大学生体防御医学研究所の研究グループが、アトピー性皮膚炎が引き起こす“かゆみ“のメカニズムを明らかにしたと発表した。研究グループはマウスを使った実験で、アトピー性皮膚炎が起きる場合とそうでない場合とを比較した結果、免疫細胞の核の中で「EPAS1」という特定のタンパク質が増えていることを突き止めた。この「EPAS1」が増えないよう遺伝子を操作すると、かゆみを引き起こす物質「IL-31」が減少して症状を抑えることに成功、患者の細胞を使った実験でも効果が確認できたという。
現在、治療法で主に用いられているステロイド入り塗り薬などは、「かゆみを抑える」もの。研究チームは今回の発見で「かゆみを抑える」ものではなく、「かゆみの根本を絶つ」新たな薬の開発につなげたいとしている。
アトピーに関する情報を集めたサイト「untickle(アンティクル)」を運営する野村千代さんは、自身も重度のアトピー性皮膚炎を患っている。物心ついた頃からアトピーを患い、皮膚が動くだけで痛みを感じ、身動きが取れなくなるほど重度のアトピーを発症した時期もあった。
サイトを立ち上げた理由について野村さんは「症状が重度化して寝込んでいた時に、アトピーと向き合わなければ今後も寝込んでしまうと感じたことがあった。同じように苦しんでいるアトピー仲間と情報を共有したり整理したりしながら、アトピーと向き合っていこうとサイトを立ち上げた」と教えてくれた。
今回の九大グループの発見に野村さんは「当事者にとって希望的なニュースだった。新薬がいつ出るか分からないにせよ、当事者として1年後、2年後の自分の生活が今よりも楽になるんじゃないかと希望を持てること自体に意義があると思う」とした。
また、アトピー性皮膚炎を患う息子を持つ星和美さんも「今までは症状を一時的に抑える薬を処方されることがほとんどだったので、このニュースを聞いて、根本から治せるという希望が持てました」と新薬の開発に期待を寄せる。8歳になる星さんの息子は、小学校に入学してからは比較的落ち着いたものの、以前は症状が重く「湿疹が膝の裏にできた時は薬を塗って包帯ぐるぐる巻きで一週間を過ごさなければならなかった」と、対策に苦労したという。
はなふさ皮膚科の花房火月医師は「IL-31というのはアトピー性皮膚炎の関係している免疫のタンパク質の中でも、近年特に注目されているタンパク質で、アトピーのかゆみを引き起こすタンパク質だと言われている。IL-31がどのようにつくられるか分かったという点では、将来に新薬の開発につながるだろうし、非常に大きな一歩だったと感じている」と話す。
一方で、アトピーを取り巻く環境の改善に必要なのは、新薬の開発だけではない。アトピーに関する周囲の人間の正しい理解が必要不可欠だ。
前出の野村さんは「アトピー当事者として、今の世の中はまだまだ生きづらい。アトピーはかゆいだけでなく、激しい痛みも伴い、社会生活が送れなくなることもある病気なんだと理解してほしい」と話す。会社や学校などで、正しい理解に基づいた制度が整っているとも言い難い。野村さんは「アトピーを正しく理解した上で制度が広がればいいと思う」と訴えた。