なぜ、児童相談所にも格差が生まれてしまうのか――その現状と解決策とは

ダ・ヴィンチニュース 2017年3月24日

日々起こる子どもたちを巻き込んだ事件や事故の数々。親の虐待、貧困、子どもの非行、置き去り、疾患などの理由から一時的に家族や社会から保護することが必要であると判断されると通常、子どもたちは児童相談所に併設された一時保護所に行くこととなる。
なかなか外部に内情が公表されにくい一時保護所の実態を、保護された子ども、保護所の職員、里親という異なる立場の人間から話を聞くことで明らかにした本がある。『ルポ児童相談所-一時保護所から考える子ども支援』(慎泰俊/筑摩書房)だ。告発本やニュースから見える部分的な姿ではなく真実の姿を伝えたいと、100人以上もの関係者からのインタビュー、住み込みと訪問により、偏りのないリアルな実態が明らかにされている。多角的に現状を捉え、一時保護所の暗部だけではなく良い点もしっかりと把握できているため、より具体的に改善策が提案されているのだ。
問題が起こり解決へと向かうためには、まず事実を正確に知ることをしなければ始まらない。しかし児童相談所の内部の取材はとても難しい。“児相たたき”をするマスコミが多いことでさらに取材が困難となる中、これだけの内情と多くの人の言葉を得ることができた理由には著者の“社会起業家”である立場が大きく活かされていた。
児童相談所や一時保護所での職員による暴行事件や性犯罪など、ニュースで目にするものは耳を疑うものばかりだ。実際に著者が出会った子どもたちの中には「あそこは地獄だ」と口にするものもいる。起床と消灯、入浴や遊びの時間が決まっている監視と管理をされた集団生活。テレビを付けたりトイレに行く際には職員の承諾が必要だ。自由時間に使用する紙には通し番号が入れられ、遊びが終わったら回収される。脱走防止に過剰なランニングを強いられることもあるという。虐待などで愛着障害が懸念される子どもでも人に抱き着くことは禁止だ。性問題を防ぐためである。すべてはトラブル防止のためだが、それはまるで囚人のような生活だ。保護は自らの非行が原因の場合もある。しかし多くの場合、被害者なのだ。
しかし、一方で「安心できた」と一時保護所を評価する子どもの声もあるという事実をニュースで知る機会は少ない。外出も運動も自由。職員に多少の生意気な口を利けるほどの自然な関係。監獄のような施設とはまったく異なった家庭的な雰囲気を持つ施設もある。
地獄に行くか安らぎの場へ行けるのか、子どもたちには選べない。意思とは関係のないところで行き先が決まり、直前まで自分の明日を知ることもできず、友達との別れの機会も持てないままに知らない土地へと連れていかれる。そして、これから生活する境遇はすべて運命にゆだねられるのだ。
日夜激務に明け暮れる児相の悪者論を唱えるだけでは子どもたちを助けることはできない。著者は児相格差問題の原因として管理・監督機能が利きにくい構造であること、企業のように監査や株価が存在せずに外部の目が入らないこと、情報確認が進まなくなりガラパゴス化してしまうことを挙げている。そして解決策として児相一極集中の現状を問題とし、体制の整備や里親への支援強化、地域ぐるみの子ども支援など具体的な対策案を挙げているのだ。
学生時代にたった1~2学年下の後輩という理由だけで殴られたときの理不尽さ、経済的に裕福ではなく親が集めたお金と奨学金でどうにか高校を受けたという経験から身をもって知ったお金の大切さ。そんなかつての経験から著者は「人は生まれながらに平等であり、みなが自分の境遇を否定することなく、自由に自分の人生を決められる機会が提供されるべきである」という想いを引き起こした。そして、その想いは信念となり本書とともに世界の弱者を支援するさまざまな活動へもつながっている。
「生まれ落ちた境遇に関係なく、誰もが自分の運命を勝ち取ることができる世の中を」と望む著者が願うのは課題解決の第一歩として世の中の人が現状を知ることだ。平等を願う著者の偏りのない取材から見る子どもたちの実態を知ることで、あなたも社会養護を考える第一歩を踏み出してみてはいかがだろうか。

施設巣立つ2人に奨学金 「未来基金」第1号

宮崎日日新聞 2017年3月23日

子どもの貧困問題の支援に取り組む「宮崎県の子どもの貧困に関する連携推進協議会」が創設した「こども未来基金」は今春、児童養護施設を巣立って4年制大学に進学する2人に奨学金を給付する。同基金にとって第1号の奨学金給付者。県民からの寄付を活用し、返済不要の奨学金各192万円を給付する。

「りゅうちゃん募金」助成団体を募集 申請31日まで

琉球新報 2017年3月22日

県共同募金会は、琉球新報社と共同で行っている「りゅうちゃん子どもの希望募金」の助成先を募集している。
生活困窮などで地域から孤立しがちな子どもたちの育ちと学びを支援する団体などが対象。申請を31日まで受け付ける。
対象は子どもの支援活動に取り組む非営利組織。
子どもの居場所づくりや見守り支援、進学のための学習支援(無料学習塾など)、不登校・引きこもり支援などのほか、支援者養成の講座などの取り組み、児童養護施設の退所児童の自立生活支援など給付型のプログラムも設けている。
詳しい内容は、インターネットで「沖縄県共同募金会」で検索するか、県共同募金会(電話)098(882)4353まで。
11歳で母を自殺で亡くした若者が生きることを諦めなかった『からあげ』の話。

STORYS.JP 2017年3月19日

ユーザーの方が投稿した記事をご紹介します。
(以下転載。読了目安 9分 )

11歳で母を自殺で亡くした若者が生きることを諦めなかった『からあげ』の話。

– 突然の母の死 –

ー母が亡くなって15年が経つ。

あの日、僕は小学校の校庭で漠然とした『違和感』を感じ取った。
『嫌な予感がする…』
体育の授業中にバレーボールのコートで、クラスメイトとボールを追いかけているときだった。突然、その瞬間は訪れた。
校庭の片隅で僕たちを見守るくすのきの表情は、いつもと違う気がした。吹く風は重たく、冷たかった。この不思議な感覚は、あとに何も起こらなければ二度と思い出すこともなかったはずだった。
放課後、友達と「また明日!」と別れ、僕は普段と変わらない通学路を歩いて帰っていた。幼馴染たっくんの家の前を通り過ぎ、次の角を曲がれば家に着く。あの『違和感』は、なくなっていた。
生まれ育った家庭は、典型的なサラリーマン家庭だった。父は仕事に忙しく、早朝に家を出て夜遅く僕が寝る頃に帰ってくる。母は専業主婦。2つ上の姉と5つ下の弟がいて、姉は中学2年になり、弟はこの春に小学校へ入学した。
夏休みには家族でキャンプにも出かけた。キャンプ場まで車で移動する道のりは、兄弟でレンタルしたアニメを観る。キャンプ場に着くと、みんなでテントを張り、海で泳ぎ、カレーをつくって食べて、テントでぎゅうぎゅうになって眠る。ランタンの明かりの温もりは、安心した眠りを誘う。
たまには外食もした。誕生日には近所のファミレスに行き、使い慣れないナイフで厚めのステーキを切って頬張り、濃厚なコーンスープを飲む。他愛ない話が繰り広げられるなか、つまらなくなって僕は静かになっていく。すると、母は「せっかく外に食べに来てるのに!」と叱ってくる。
ごくごく変哲もない家庭で、周りと何も変わらない日常が繰り返されていた。
「まぁくん!今は家に入ったらアカン!」
呼び止めたのは、家の向かいで車の修理工場を営む、幼馴染のお母さん『タケのおばちゃん』だった。
『え?何かあったん?』
そう思っていると、おばちゃんは僕の肩に手を置いて泣きそうな顔をしていた。
「お母さんが、大変なことに…。」
気さくなタケのおばちゃんは、口数が少なく、無言で僕を修理工場の事務所へ連れて行った。
『また、おかん、何かやらかしたんかな』
そのくらいのことしか、僕は考えていなかった。でも、二階の事務所まで階段を登るに連れて、あの『違和感』が再びやってきた。
そこには、弟がいた。小学1年の春を迎えたが、早生まれで身体もまだ小さかった。
弟は、無表情だった。僕は、弟に聞いた。
「おかん、どないしたん?」
弟は表情を変えなかったが、出てきた言葉は、小さな身体で受け止めきれていない重さがあった。
「…死んでた。」
一言だけだった。
僕と弟はしばらくした後に家に入ることができたが、それまで何をしていたのか、何を考えていたのか、全く覚えていない。あの『違和感』が想像を絶する形で現実として目の前にあらわれ、頭の中は『真っ白』、心の中は『真っ黒』になっていた。
僕の母は、自宅で死んでいた。

– 最後の夜 –

玄関は、いつもと変わっていなかった。
台所には、夕食の食材が置いてあった。カレーの食材と魚のフライだった。
「いってらっしゃい。」
朝、母の声かけにろくな返事もせず僕は学校へ向かった。ここ数日、母は朝食もつくってくれていた。夕食の買い物に出かけて、帰ってから思い立ったのだろうか。
僕が母と対面したのは、オソウシキを行う会場だった。母は狭い桶の中で静かに手を組んでいた。ただ寝ているだけのような感じがした。小さい頃、僕は夜中に目覚めると、この母親の顔を観て安心して、眠りにつくことが定番だった。
違ったのは、唇が真っ赤に塗られていたことだけだ。ただ、顔に触れると『ツメタイ』感じがした。横で一緒に寝ながら包み込んでくれた温もりはなかった。
本当に死んでしまったのだろうか?なぜ死んでしまったのだろうか?僕は不思議でたまらなかった。『ツメタイ』ことだけが母の死を確かにしようとする証拠だった。
雨の中、オツヤがあった。担任の先生や友達、どこかで見たことのある母や父の知り合いも来ていた。
あるおばちゃんは、僕に言った。
「泣かずに、えらいね。これから大変になるんやろうけど、お母さんの分もしっかり生きるねんで。お兄ちゃんやねんから、大丈夫。」
溢れる感情を受け入れることは、母が死んだことを受け入れることになってしまう。涙を流すと、本当に母が死んでしまう気がした。
何かの間違いで、テレビで観たことのあるドッキリが起こるんじゃないか。
『実は、生きてました!』
と誰かが言ってくれることを、僕は静かに期待していた。
父はオツヤに来てくれた人たちへ「最近、養命酒を渡したことがいけなかったのかもしれない。色んな理由を探すけど、神様に呼ばれて逝ってしまったと考えないと気持ちの整理がつかない。」と話していた。
オツヤが終わり、最後の夜が始まった。外は、変わらず雨が降っていた。ただ、入り乱れる悲しみや苦しみや『なんで?』の気持ちを見守る、静かな夜だった。
母の眠る桶のそばで僕は月刊マンガを読んでいた。応募した懸賞に当たり、名前がマンガの最後に書かれていた。
「ほら、見て。僕の名前があるよ。」
僕は母が返事をしてくれることを待っていた。周りが明るくなるまで、母の横でマンガを読み続けた。
オソウシキは、あまり覚えていない。覚えていることは、弟がゲームをやっていたことだ。
「もう直ぐお別れやのに、何やってんねん。」
「ゲームをやりたいんやなくて、ゲームをすることでしか、目の前を見ることができへんねん。」
親戚のおばちゃんらは、ひそひそと話していた。
お別れの時が、やってきた。母は暗い火葬炉に運ばれていった。母の弟あっくんが泣いているのを初めて見た。その涙を横目に、本当に母が死んだこと、もう二度と会えないことを悟った。
僕は初めて涙を流した。誰にも気付かれないよう、静かに泣いていた。

– 後悔と自分を責める思い –

母は、優しい人だった。いつも『まぁくん、まぁくん』と声をかけてくれた。
僕は、母親っ子だった。幼稚園の連絡帳には『お母さんが一人で寂しい思いをするからと、遊ぶ約束を断ってきたようです』『お母さんにプレゼントすると折り紙を折っていました』と書かれている。随分と甘えん坊の子どもだったようだ。
母の様子が変わったことを感じとったのは、小学校5年生、林間学校を終えて夏が来たときだった。
その頃、僕は少年野球を始めて1年が経とうとしていた。プロ野球では助っ人の選手がホームランを量産していて、「すげーよな!」と友達と言い合ながら練習に励んでいた。
初めて異変に気付いたのは、母の髪の色が変わったときだった。黒い髪は、明るい茶色になっていた。寝込む日が増え、料理ができなくなった。僕は、冷凍食品やレトルト食品を電子レンジで温めて食べるようになった。
次に、母は煙草を吸い始めた。当時の僕は、煙草が大嫌いだった。息苦しくなり、不機嫌になってしまう。そのことを母はよく知っていた。なんで母が煙草を吸い始めたのか父に聞いた。
「お母さんは煙草を吸っていた時期があった。子どもができて、子どものためにやめていた。」
『子どものためにやめていたって、子どものことはどうでもよくなったから、また吸い始めたの?』
僕は受け止めることができなかった。僕が煙草を嫌いなこと、知っているはずなのに。
髪を染めたり、煙草を吸い始めたのも、気分を変えようとしていただけのかもしれない。母はうつ病とパニック障害を抱えていた。でも、様子が変わっていく母親の様子に理解を示すことができなかった。
母は離婚の話も切り出した。このままだとどうにかなってしまいそうで、家族と距離を置きたかったらしい。母は、姉と僕に話をした。
「離婚することになったら、お姉ちゃんとお兄ちゃんはお父さんについていくのよ。私や弟とは別々になってしまうけど、どうか許して。」
心の中で僕は怒った。
『お母さんが体調を壊して大変なことになっているのに、自分たちを置いて離婚をしたい?ふざけるな!』
その後も、母の体調は悪化していった。寝込む姿を何度か見たが、ひどいときは嘔吐して寝ていた。体調のムラがあり、調子の良いときは『まぁくん』と声をかけてくれる。調子が悪くなると、僕を忘れてしまったかのように無言で目も合わせてくれない。
どうしても母に優しくなれなかった。時には「なんやねん!」と冷たい言葉も投げかけてしまった。
しかし、冬、母は僕をぎゅっと抱きしめてきた。
「離婚するのは、やめた。まぁくんが言ってくれたように、家族みんな揃ってが良いもんね。」
温かかったけど、どこか、ぎこちなかった。
小学校6年生になり、弟は小学校へ入学した。母は弟と僕が一緒に学校へ行く姿を見たかったらしい。母の体調も少し良くなってきた気がした。
子どもの日。暮らしていた地域では、お祭りがある。おみこしをかついだ人に神社の露店の食券がもらえるから、僕は毎年そのお祭りに出ていた。
露店の手伝いには母が来ていた。目を合わせることができなかった。
「おーい!良かったら、お母さんと一緒に写真を撮らへん?」
地域のおじちゃんは僕に声をかけてくれた。母は静かに僕を見ていた。
『調子の良いときだけ、何言ってんねん…』
僕は、母と一緒に写真に写ることを拒んだ。友達と一緒に、その場を離れた。
一週間後、母は死んだ。母との最後の思い出は、このお祭りだった。
あの時、優しくできなかった。冷たい言葉を投げかけてしまった。
僕は母を否定してしまった。だから、母は自殺したんじゃないだろうか。
最後に交わした言葉も覚えていない。きっと、ひどいことを言ってしまったのだろう。
後悔と自分を責める思いは、いつも寝る前にじわじわとやってくる。
『ごめんなさい…』
夜になると、涙が出てくるようになった。これは、悲しみの涙ではなかった。

– 自分のことは自分で –

オソウシキが終わって少し落ち着いたころ、父は子ども3人に宣告した。
「これからは自分のことを自分でする。これが基本やで。」
「弟はまだ小さいから、お姉ちゃん、お兄ちゃんが面倒みてあげてな。」
父は、しばらく仕事を定時で切り上げていた。しかし、会社の人から「うちは慈善事業をしている訳ではない。」と言われたそうだ。家族みんなでご飯を食べることや出かけることは、一切なくなった。
朝は、朝食を食べずに弟と学校へ行く。
学校は、普段と変わらない授業が続く。
学校が終わると校庭で待つ弟を連れて家へ帰る。
家へ帰ると、何よりも先に風呂の掃除をする。
次に、洗濯機を回しながら夕ご飯をつくる。
夕ご飯を食べ終わると洗濯機から洗濯物を取り出す。
ベランダに干していた洗濯物を取り入れて、また洗濯物を干す。
ようやく風呂に入って、あがると、うとうと寝てしまう。
目覚めると、取り入れた洗濯物をたたんでいなかったことに気付く。
時計の針は12時を回ろうとしていた。『まだ宿題も終わってないや…』
そんな毎日が繰り返されるようになった。
それでも、僕はそれでよかった。
時間があると、母に対して色んな気持ちがわきあがってくる。
『あの時、態度がよくなかったからかな…』
疲れて寝てしまうと、母の死と向き合わずに済んだ。何もしていない時間が、一番恐かった。
でも、そんな状況に腹も立っていた。ある日、知り合いのおばさんは僕に話をしてくれた。
「神様は乗り越えられることしか与えへんねんで。やから、大丈夫。」
僕は、そんなおかしな話はないだろうと思いながら聞いていた。
『ホンマに神様がおるんやったら、なんでお母さんが死ななあかんかってん。教えて。』
後悔や自分を責める気持ち、そして、怒り。そんな気持ちと付き合うのは、しんどかった。
母の死から1年が経ち、僕は中学校へ入学した。弟は児童養護施設に預けられることになった。
友達と話したり、遊んだりもするけど、いつも『ひとりぼっち感』はつきまとった。
『ひとりぼっち感』は、お母さんがいない周りとの違いではなく、誰にも頼らず、独りで生きていかなければいけない気持ちが強かったからだ。とにかく”しっかり”しなければやっていけなかった。常に前を向いていなければ、母の死について考えてしまい、僕はその状況に耐えられなかった。
静かな『孤立』が襲いかかろうとしていた。僕は、涙を流さなくなった。

– からあげが2個 –

そのような僕が生きることを諦めなかったのは、理由がある。
僕は中学校に入ってクラスの委員や部活動でリーダーを務めるようになった。前向きな気持ちがあったからではない。周りに心配をかけてはいけない、自分がしっかりしなければいけない、その気持ちだけが体を動かしていた。
放課後は、夜遅くまで友達と遊ぶようになった。部活動が終わって帰宅すると、自転車に乗ってバスケットボールのコートがある公園へ行く。友達にもひとり親や遅くまで親が働いている家の子が少なくなかった。夜ご飯はファミレスで一番安いメニューで済まして、ひたすらバスケットボールをした。
週末になると、毎週のように友達の家へ泊まりに行った。朝まで友達と話したり、ゲームをして遊ぶ。普段の掃除や洗濯や料理は、あまりしなくなった。カップラーメンが中学校生活の主食だった。
当時は、たまに父から渡されたお金で買いに行くお弁当が数少ない栄養分だった。
行くお店は決まっていた。商店街近くのお弁当屋さんだ。
お店には、友達のお母さんがパートで働いていた。渡されるお金が少なかったから、僕は一番安いお弁当を頼むようにしていた。でも、友達のお母さんはお弁当にからあげをこっそり2個入れてくれる。
友達のお母さんは何も言わないけど、『今日も入れておいたからね』と僕にアイコンタクトをしてくれる。僕も『ありがとう』とアイコンタクトを返して店を出る。家に帰って食べるからあげは、美味しくて今でも忘れられない。お弁当には、からあげ以上の温もりが詰め込められていた。
-母が亡くなって15年が経つ今日、孤立しそうになっていた僕が人生を投げ出さずに済んだ理由は、このささやかなストーリーの積み重ねがあったからだと思う。
あの地域のおばちゃんは、お米の洗い方を教えてくれた。あの友達のお母さんは、毎週のように泊まりに行っても温かく迎え入れてくれた。あの中学校の先生は、混ざり合う複雑な感情をそのまま受け止めて静かに話を聴いてくれた。何か大きな出来事や支援があった訳ではない。今になって思い出す本当に小さなストーリーも多くある。
大学卒業後、仕事を始めて1年が経とうとする頃、ふとした瞬間に僕は大きな発見をした。
『きっと、僕はお母さんに認められたかったんだな。』
肩にのしかかっていた重圧感は、この日を待っていたかのようにほぐれていった。
その時は何か出来事があったからではなく、不思議な気持ちもあった。でも、振り返ると『絶え間ない小さな支え』があったからこそ、小さな瞬間に自分でそのことに気付くことができたのだと、今は感じている。
あの時から母に対して『ごめんなさい』しか言えなかった。
痛みは今もある。完全に乗り越えられた訳ではないし、乗り越えるものでもないのかもしれない。
それでも、15年を迎えようとする今、僕は母に『ありがとう』と言いたい。
そして、これから前へ進もうとするとき、僕は何度でも思い出すだろう。
あのときのささやかなストーリーと、小さな支えを。本当にありがとう。