あなたは、児童養護施設と、全く関係がないのですか?いいえ、他人事ではありませんよ。

明日、ママがいないは、他人事?

 ドラマ「明日、ママがいない」の第1話から第7話を観て、このドラマが社会に提起したい内容は、第6話と第7話に表現されているのだろうと感じました。
 第6話は、マスコミや著名人のブログ等で、番組クレーマーへの反論ではないかとの憶測が飛び交っていますが、公共の電波を使って放映しているドラマの中で、殆ど、私的流用とも言える暴挙に日本テレビが出るわけないと推測します。
 それよりも、児童養護施設や子どもたちについて無知な社会、人の一部分だけ見て判断してしまいがちな社会、仲間を信じ切ることの出来ない社会への警鐘的な意味合いがあったように感じ取れますし、それらのことを通して、愛すること、愛されることの意味を問いかけていると感じ取れます。施設長さんが子どもたちを前にして話すシーンも、児童養護施設の職員は勿論のこと、学校の教職員など、子どもたちと関わる職業の人たちにとっては、経験のあるシーンでしょう。そのような意味では、至極真面目なドラマに仕上がっていました。
 第7話では、児童福祉の専門性が垣間見えるドラマ展開になり、児童心理的な見解も表現され、奥が深い内容になりました。子どもの心の深淵をドンキの演技力が見事に表現し、この子が、どの様に立ち直っていくのか、心の闇を克服していくのか、その動静に視聴者は、引き込まれていることでしょう。
 ドラマの構成としては、この第6話以後、つまりドラマ後半に社会への問題提起を浮き彫りにしていくために前半が形作られていったとは推測できますが、それ故に、第1話の不適切な表現が惜しまれます。
 多分、ドラマ制作者側としては、施設内虐待や里親さんの登場人物設定がクローズアップされることは、想定外だったと推測されますが、それらも含めて、争点の的になっているのは、結局第1話であると考えられます。
 営業的な宣伝戦略としては、視聴率も10%以上をキープしており成功を収めたと言えますが、道義的信用に対しては、CM自粛の影響等を考えると(-)評価が目立ってしまったと言うことになります。
 後半のドラマ展開が、秀逸であればあるほど、第1話は、取り返しのつかない失策と映ってしまいます。残念なことです。
 「ポスト」等のニックネーム表現や、児童処遇の表現については、慈恵病院や全国児童養護施設協議会が、問題提起していますので、そちらの意見に耳を傾ける必要があると思いますが、今回の争点の根本は、「物語の舞台は児童養護施設」と言う設定であると考えられます。しかし、その部分は、誰もが見て見ぬふりを決め込んでいます。
 ドラマの内容は、特に児童養護施設でなければ成立しない訳ではなく、フィクションであれば、完全にフィクションの舞台設定にすれば良かっただけのような気がします。
 公式ホームページの掲示板の書き込みを見ても、ドラマ内容に対する感動や、役者さんたちへの想いなどの書き込みが目立ち、児童養護施設への理解や想いへの書き込みは、少数派です。つまり、児童養護施設という舞台にこだわらなくても、視聴者は、感動を得ることが出来ます。何故、「物語の舞台は児童養護施設」と視聴者が誤認するだろう広報活動を展開したのか、その失策も惜しまれます。それほど、第6話以降のドラマ展開は、教示を含んだ良いドラマに仕上がっているからです。
 ドラマを通して「児童養護施設」と言う単語が啓発されたことは、紛れもない事実ですが、残念なことに、児童養護施設の中身が啓発されたとは言いがたいのも事実です。当サイトのアクセス状況を分析してみても、「明日、ママがいない」に関するブログ記事について当サイトを訪れた人の多くは、その後、他のサイトへと移動していきます。当サイトのメインコンテンツである、児童養護施設関連記事へ移動する人は残念なことに少数派です。そこから見えるのは、ドラマ「明日、ママがいない」の動向に興味関心があり、児童養護施設に興味関心を示しているわけではないだろうという現実です。
 しかし、当サイトのアクセス数は、ドラマ開始前は、200名程度でしたが、現在は、「明日、ママがいない」記事以外への検索による訪問者が約300名となっていますので、児童養護施設に興味関心を持った人々が増加したことも事実です。
 ただし、ドラマ視聴によって、児童養護施設について、誤認理解をしている視聴者が増加したことも推測できます。
 総合的にみると、ドラマ「明日、ママがいない」が児童福祉にとっては、(+)の要因として作用したのか、(-)の要因として作用したのかは、今後の社会状況を観察しないと判明しないでしょう。