陣痛に耐えながら避難を…赤ちゃんポスト病院「命のドラマ」

女性自身 2016年4月28日

40人以上が亡くなった熊本地震から1週間以上がたった今も、熊本県内には約8万人が避難生活を続けている。だが、そんな被災者たちを笑顔にする出来事が。本震発生の4月16日、赤ちゃんポストとして有名な熊本慈恵病院で4人の新生児が誕生していたのだ。
そんな慈恵病院で起きていた壮絶な「命のドラマ」を、震災渦中に出産したママが語ってくれた。
16日午前3時3分に第二子となる男の子を出産した田島曜子さん(38)は本震当時、陣痛に耐えていた。看護師から「外に避難してください」と告げられたときは思わず耳を疑ったという。
「私は陣痛が激しくなってもうすぐ産まれるかもしれないのに、外へ出るなんて信じられませんでした。だって、上の子のときは出産でトイレに行くだけで『痛くて歩けないので無理です』と言ったぐらいでしたから。お腹も痛いし、エレベーターも止まっている。そもそも歩けるのかという気持ちでした」
それでも避難するしか道はない。彼女は陣痛が弱まるタイミングを見計らいながら、駐車場へと向かった。
「一歩だけ歩いて、痛くなったら止まるということを繰り返していきました。本当に少しずつ。正直、心配でした。でも看護師さんたちが赤ちゃんを運んでいる様子をみたとき、ハッとしたんです。彼女たちは自分で歩けない赤ちゃんたちを助ける必要がある。だから私が頼っちゃダメだと」
ようやくたどり着いた避難先の病院駐車場では、出産を巡り医師たちの意見交換が行われていた。彼女は「駐車場で産まなきゃいけないの!?」と不安でならなかったという。だが結局は、かつて婦人科外来に使っていた空き部屋で出産することになった。
「一応室内ではありましたが、最初は不安でした。でも次第にたくさんの助産師さんが来て『大丈夫、大丈夫』と励ましてくれて。そうしたら『みんなが私を守ってくれる』と覚悟できたんです。出産中はとにかく『次の地震が来る前に早く、早く!』と思っていました。産まれた瞬間は、ホッとしました」
そんな絆が産んだ赤ちゃんは「璃久(りく)くん」と名付けられた。前から決めていた名前で、周囲からは「こんなときに生まれたから、きっとたくましい子に育つよ!」と言われているという。
「地震のなかでの出産は大変だったけど、みんながいたから産むことができたと思います。でも先生たちが『このあと帝王切開が必要な人がまだ2人いる』と言っていて……。私はもう大丈夫。だから早く次の妊婦さんを助けてあげてと強く願っていました」
そんな助け合いによって、ようやく赤ちゃんたちはこの世に産まれてきたのだ――。

【熊本地震】「補修できない全壊」と「補修できる全壊」の違い

nikkei BPnet 2016年4月26日

わが家が「全壊」と聞いて泣いていたお母さん
熊本地震で住宅の被害が最も大きかったのは、震度7の地震に2度も襲われた、熊本市の東側に隣接する益城町(ましきまち)である。その避難所を訪れたテレビ局の記者の前で、40代から50代くらいのお母さんが泣いていた。
「近所の人が知らせてくれたのですが、わが家は全壊と判定されたそうです。もう帰る家がありません。これからどうすればいいのでしょうか…」
鉄筋コンクリート造のマンションなら、全壊と判定されても、地震後に補修・補強すれば元通りに住むことが可能なケースが少なくない。それに対して、木造住宅の場合には、一般的には補修・補強が難しいケースが多い。泣いていたお母さんは誠にお気の毒である。今回は「補修できない全壊」と「補修できる全壊」の違いに焦点を合わせたい。
震度7クラスの大地震が発生すると、全国から「応急危険度判定員」が動員されて被災建物を調査し、「緑(調査済、安全)」「黄色(要注意)」「危険(赤色)」の3色ステッカーを貼っていく。今回の判定員は600人規模とされている。
まず、内閣府が作成した「建物被害における全壊の定義」と題する図を見る(注:以下、図版についてはページ下【関連記事】の1本目同名記事を参照)。
左端に被害分類として、「D0、D1、D2、D3、D4、D5-、D5+」の7段階があり、次に破壊パターンと状態を示す説明文が続く。そして、右端に「専門調査会、自治体罹災証明、応急危険度判定、損害保険料算定会」という4つの主体(目的)がある。
このとき、全壊(危険、全損)と半壊(要注意、半損)の境目になっているのが、D3の「柱・梁・壁の一部が破壊(内部空間の欠損なし)」である。
このD3なら地震後に何とか補修・補強できるが、それより被害が大きい「D4、D5-、D5+」だと、遺憾ながら補修・補強は難しくなっていく。

益城町の建物被害を「全壊率テーブル」で分析
熊本日日新聞(4月24日付)によると、益城町(約1万1000棟)の場合には、調査した4426軒のうち、危険が2196軒(約50%)、要注意が1283軒(約31%)、調査済みが949軒(約21%)だった。すなわち全壊率が約50%という、極めて悲惨な状態になっている。
益城町の建物被害を「全壊率テーブル」で分析する。全壊率テーブルとは、阪神・淡路大震災などによる建物の全壊率と計測震度の関係をまとめた図で、大きく木造建物と非木造建物に分かれている。
これは内閣府が作成した「木造建物全壊率」の上に、筆者が赤字や青字を書き加えた図である。まず3本の曲線があって新築年(1981年以降に完成)、中築年(1963~1980年)、旧築年(1962年以前)に分かれている。また縦軸は全壊率で0%から100%まであり、横軸は震度階級と計測震度になっている。
例えば、横軸で計測震度6.4の場合には、その点線が新築年曲線と全壊率11%の地点で交叉している。よって、1981年に成立した「新耐震基準」を使って設計された木造建物の全壊率は「11%」という判定になる。
ここで少し厄介なことがある。
「震度」と「計測震度」は表のような関係にあるが、これとは別に「提案震度」という物差しがある。地震動の中でも周期が1~2秒の揺れは、普通の建物に大きな被害をもたらすため、「キラーパルス」と呼ばれることがある。
提案震度とは、このキラーパルスを考慮して震度を計算し直したデータで、実態をよく反映するとして重宝されている。
<参考文献――境有紀、神野達夫、纐纈一起「震度の高低によって地震動の周期帯を変化させた震度算定法の提案」(日本建築学会構造系論文集、第585号、 2004年11月)>
上記参考文献の著者の1人である、筑波大学の境有紀教授のWebサイトには、熊本地震について計算したデータが掲載されている。
実は、先ほど示した「木造建物の全壊率テーブル」のうち、赤字の1番から6番は提案震度を基準にしている。一方、青字で「別型」と注記した1番と4番は、計測震度を基準にしている。結論から述べると、今回は青字の「別型」は実態にそぐわないので、無視して話を進めたい。

最初の震度7で20%全壊し、次の震度7で50%全壊へと拡大か
それでは、益城町の建物は1回目から6回目までの大きな地震に襲われるたびに、どのように破壊していったのだろう。その結果を下記「全壊率テーブル」にまとめた。この図を使うと、「益城町で調査済み木造住宅の全壊率が約50%に達した理由」をほぼ説明できる。
1回目の震度7で発生したキラーパルスは、阪神・淡路大震災の4割程度だった。これを図の「1番の赤線」と「新築年住宅の曲線」が交差する点に当てはめると、全壊率は2%程度になる。
ただし、益城町の地域地震係数Zが「0.9」であることを考慮すると、全壊率はもう少し上がると思われる。その結果を図の「S1」に示した。同じ要領で、中築年住宅の全壊率を、図の「K1」に示した。
2回目の震度7で発生したキラーパルスは、阪神・淡路大震災の5割程度だった。これを図の「4番の赤線」と「新築年住宅の曲線」が交差する点に当てはめると、全壊率は4%程度になる。これに地震係数Zを加味すると「S2」となり、中築年住宅の結果は「K2」となる。
これを前提にして、1番から5番までの連鎖地震の影響を推測してみよう。
(1)1番の震度7で、新築年住宅はS1に示すように「5~10%」、中築年住宅はK1に示すように「20%程度」全壊した
(2)ただし、全壊といっても、冒頭の「建物被害における全壊の定義」で説明したように、被害程度は「D3、D4、D5-、D5+」の4段階に分かれているので、すべてが完全に倒壊したわけではない
(3)2番の震度6弱の揺れで、建物はさらにダメージを受けた
(4)3番の震度6強の揺れで、建物はさらにかなりのダメージを受けた。それでも、影響は決定的だったわけではない
(5)しかし、4番の震度7は、1番の震度7をさらに上回るキラーパルスだった。そのため建物に決定的なダメージを与えて、S2およびK2のような被害をもたらした

(5)の状態について、より詳しく説明する。
(5-a)まずS1およびK1で全壊した住宅は、4番の震度7で完全に倒壊したと思われる
(5-b)それに加えて、4番の震度7は計測震度が大きかったため、別の住宅も倒壊させた
(5-c)S2およびK2を合計すると、全壊率は約50%となる
(5-d)これは新聞で報道された約50%という全壊率と重なる

全壊判定の益城町庁舎は補修・補強を予定
次に非木造建物、すなわち鉄筋コンクリート造や鉄骨造の全壊率テーブルを作成した。
このうちS2を見ると、益城町では新築年・中築年・旧築年を合わせて、10~20%程度の建物が全壊と判定された可能性がある。実際問題として、益城町庁舎も応急危険度判定では、赤色(危険、全壊)とされている。
ただし鉄筋コンクリート造や鉄骨造の場合には、全壊と判定されても、その多くを地震後に補修・補強すれば使用できる。まず「日本建築学会の被災度区分(鉄筋コンクリート造)」を見る。
この被災度区分は、倒壊、大破、中破、小破、軽微、無被害の6段階に分かれている。
次に参考文献<高井伸雄、岡田成幸「地震被害調査のための鉄筋コンクリート造建物の破壊パターン分類」>から、次の図を引用する。
この図によると、自治体統計の罹災証明書で「全壊」と判定された建物は、建築学会の被害ランクでは「中破、大破、倒壊」と3分されることになる。
注意したいのは、建築学会の大破の説明文の末尾、「取り壊し、または大規模、全面的な補強工事を必要とする」という個所である。すなわち上から2番目の大破(全壊)であっても、補修・補強すれば使用できることを意味している。これが木造住宅との決定的な違いになる。
実際問題として、赤色(危険、全壊)と判定された益城町庁舎も、早急に補修工事を施して、2週間後をめどに業務を再開する方針とされる。

一連の地震が収まったその日から
全壊判定された建物を解体するのか、それとも補修・補強して再利用するのか。一般論でいえば、その判断を下すのは、一連の余震が収まって少し落ち着いた頃になる。
気象庁が発表したデータを見ると、余震は収まってきたようにも見える。
しかし、もう1枚のデータを見ると、まだ予断を許さないような気もする。
地震が早く収まって、被災地の皆さんが復興に向けて前向きに努力できる日が来るように、念じています。どうか気をつけてお過ごしください。
(細野透:「危ない建築」と「安全な建築」の境目を分けるもの)

熊本空港はいま、どこまで復旧しているのか

東洋経済オンライン 2016年4月28日

4月14日以降に九州を襲った「熊本地震」は、熊本県内の交通インフラにも大きな影響を与えた。九州新幹線は全線が運転見合わせとなったほか、高速道路も一部陥没を受けて通行止めになった。震源地に近い益城町(ましきまち)に位置する熊本空港も影響は大きかった。ターミナルビルの損傷によって4月16~18日までの3日間は全便欠航となったからだ。

熊本空港の現状はどうなっているのか
熊本空港は4月19日から運航が再開したが、現状はどうなっているのだろうか。筆者は震災から1週間が過ぎた23日(土)に羽田空港から熊本空港へ向かった。そのときの空港の様子を中心に熊本の交通網の現状をリポートする。
4月23日(土)、羽田空港から熊本空港への始発便となるソラシドエアに搭乗した。飛行機はほぼ満席。ボランティア目的とみられる人も多かったほか、スーツ姿のビジネスパーソンも目立った。
筆者は昨年から今までに10回近く熊本空港を利用している。着陸直前に有明湾から内陸に入り、飛行機の窓からJR熊本駅や熊本城などを見渡した後、熊本空港がある益城町(ましきまち)へ近づくにつれて、屋根を覆うブルーシートがはっきりと確認できた。地震の凄まじさを着陸前に知ることになった。
飛行機は定刻の朝9時過ぎに熊本空港に到着。
到着して通常どおり、ボーディングブリッジ(搭乗橋)からターミナルビル2階に入ったが、ターミナルに入った瞬間に壁が剥がれている部分が「立ち入り禁止」になっているのに気がついた。
1階の到着ロビー内はトイレも利用できないため、到着ロビーへ降りる前に済ませるように注意書きがあった。

一部は営業中だが、壁が崩れているところも
到着ロビーは通常どおりの運用だった。4月19日(火)の空港再開当日は、朝から到着便のみ再開され、到着客はターミナルに入らずに預けた手荷物も屋外で引き渡す対応だったが、19日15時からのターミナルビルの運用再開以降は通常の導線での運用になっている。
到着ロビーのある1階エリアも天井の一部分の壁が落ちる危険性もあり、立ち入り禁止になっている部分があった。ANA(ソラシドエアを含む)、JAL(天草エアライン、FDAを含む)、ジェットスターの各チェックインカウンターは通常どおりに利用できた。その後、出発ロビーのある2階へ上がってみたが、レストランがあるターミナル東側のエリアはすべて立ち入り禁止となっていた。
お土産エリアは全体の7~8割部分は復旧し、一部入荷されない商品もあったが、お菓子をはじめ、一部の売店ではお弁当や揚げたてのさつま揚げなども販売され、レストランが閉鎖中でも食べ物や飲み物を買うことができた。
お店によって21日(木)・22日(金)と段階的に営業を再開したそうだ。4月25日現在、ターミナルビル2階にある8店舗のうち6店舗で営業をしている。
あるお店のスタッフは「営業を再開する準備の為にターミナルに入ったときは棚に並んでいた商品のほとんどが落下し、余震の中での再開準備だった」と話す。筆者の印象としては、地震から1週間で、品ぞろえも含めた目に見える場所における復旧が進んでいるように感じられた。

レストランエリアの再開は「水」が鍵に
レストランエリアの再開について、熊本空港ターミナルビルの担当者は筆者の取材に対し、「GW中の復旧は難しいと考えている。水は出るようになったが、益城町(空港のある)から飲料不適という連絡があり、飲み水として使うことができず、建物の損傷も含めてしばらくは時間がかかるだろう」と話した。
出発エリアについては、出発の際に搭乗者が通過する保安検査場は通常どおりに運用されているが、出発エリア内に入ると一部立ち入り禁止になっているエリアがあった。
熊本空港では2~7番ゲートまで6つの搭乗口があるが、2・3番ゲートは閉鎖され、4番ゲートは応急措置をしたうえでの部分運用になっていた。
5~7番ゲートは通常どおりに利用できたが、すべてのゲートが利用できないこともあり、熊本空港に乗り入れている各航空会社は便を減らしての運航を継続している。また、多頻度利用者が利用できるANA・JALのラウンジも1回目の地震翌日の15日より閉鎖され、現在も閉鎖が続いている。ゲート内の売店は生ビールやホットコーヒー、うどん・そばなどの販売は見合わせていたが、お土産や飲み物、調理を必要としない食べ物は販売されていた。
次に熊本空港と熊本市内へのアクセスについて現状をお知らせしよう。23日(土)の時点で、空港リムジンバスは通常どおりのダイヤで運行されていた。
ただ、バス停前のバス乗車券を販売する自動販売機は利用できず、机を出して乗車券は販売されていたものの(熊本空港から熊本市内へのバスはSuicaやPASMOを含むICカードでそのまま乗車できる)、普段とあまり変わらない感じであった。
筆者は9時25分発の熊本駅行きのバスに乗車し、熊本城近くの通町筋バス停で下車したが、時刻表よりも5分の遅延で到着した(所要時間は約45分)。地震からしばらくの間は渋滞でかなりの時間を要しているという情報があった中で、大きな渋滞もなく到着できた。
熊本空港へ向かうバスもほぼ定刻どおりの運行だったが、緊急車両の通過も多くあることから、当分はかなり時間に余裕を持って空港へ向かうことをおすすめする。またバスでの移動中、閉まっているお店も多くあり、ブルーシートが被せられた状態になっている家屋も多く見られるなど地震の凄さを改めて感じた。地震直後から数日間、ガソリンスタンドは大行列、コンビニエンスストアからは食べ物と水がなくなる状況であったが、現在では解消されていた。

多くの店舗は休業状態で閑散としている
熊本城は報道されているように、城壁や天守閣の瓦などが崩壊し、立ち入り禁止になっていた。また熊本城周辺の一部のホテルでは損傷が激しく、営業中止になっているホテルも数多くある。
熊本のショッピングエリアの中心である下通アーケードへ足を運んでみた。コンビニエンスストアや一部のレストランなどは営業を再開していたが、チェーンのファストフードやコーヒーショップなどの多くが休業状態で、人は歩いているが閑散とした雰囲気だった。
筆者は熊本地震の約2週間前となる4月上旬にも熊本市内を訪れ、同じ場所を歩いていたが、その時に多く見られたアジアからの外国人観光客の姿が23日にはほとんど見られなかった。熊本空港国際線ターミナルは、4月26日現在全面閉鎖中で、高雄からのチャイナエアライン、ソウルからのアシアナ航空、香港からの香港航空の3路線全て4月中の運休を決定している。
4月27日午後からは最後の不通区間になっていた熊本~新水俣間の九州新幹線の運転が再開され、博多~鹿児島中央間の全線が地震以来、初めて繋がるなど交通アクセスにおいては復旧しつつある。全体的には、交通インフラの復旧におけるスピードは驚異的に早いという印象だ。公共交通機関が動き出すことで人の動きもスムーズになり、震災復興のスピードもアップすることになる。1日も早く、今までどおりの生活が取り戻せることを願うばかりだ。