「所在不明の赤ちゃん」見つけろ!「乳幼児健診」未受診4176人―虐待・育児放棄のサイン

J-CASTテレビウォッチ 2014年3月 3日

読売新聞が去年末(2013年)に独自調査したところ、「乳幼児健診」の受診がなく所在のわからない乳幼児が全国に4176人いるという。全国最多の12万人の乳幼児がいる横浜市の緊急調査でも608人がわからなかった。市の近藤政代課長は「未受診家庭の中から虐待に繋がるケースが強い」と危機感を強めている。厚生労働省は全国の自治体に「消えた赤ちゃん」に実態を把握するよう通達した。
愛知県豊橋市「虐待ハイリスク担当保健師」配置
2年前に未受診だった4歳の女の子が衰弱死する事件があった愛知県豊橋市では、通常の保健師訪問では面会できなかった家庭を重点的にフォローする「虐待ハイリスク担当」の保健師を配置した。キャリア15年の井上さんもその一人で、この日は1歳6か月検診を受けていない赤ちゃんがいる家庭を訪問した。
保育園から帰る時間を見計らってアポなしだ。不在だったが、電気メーターが回り、2階のベランダに洗濯物があったことから、生活実態ありと判断した。
この日は会えなかったが、体重計や積木など健康状態・発達状態を調べる道具を持って、曜日は時間を変えて何度も訪問することにした。
豊橋市では保健婦部門だけでなく他部署と連携も密にした。衰弱死した女の子の父親は児童手当を受給するため子育て支援課を訪れ、新しい住所を登録していたのに、それが保健婦側に伝わっていなかったからだ。担当者は「待っているのではなく、こちらから寄り添うようにしていかなければと考えています」という。
奈良県宇陀市は所在不明乳幼児をゼロ、つまり面会率が100%だ。どうやっているのか。職員が訪問したときに玄関のドアを開けてもらうよう、出産2か月の親子が市内の商店で使える1万円の商品券を直接手渡すようにしているのだ。
役所側が積極的に動くということが、「消える赤ちゃん」をこれ以上増やさないカギというわけだ。
(磯G)

「プリキュア」からアンネの伝記 横浜の区役所に届く

朝日新聞デジタル 2014年3月3日

 人気アニメ「スマイルプリキュア!」の主人公を名乗る人物から2日、横浜市神奈川区役所にアンネ・フランクの伝記3冊や文房具などが届いた。区が3日、発表した。
 区内では先月25日、市立神奈川図書館で「アンネの日記」が1枚破られているのがみつかった。区はアンネ・フランクの本は同図書館に、それ以外の贈り物は児童養護施設の子どもたちに配りたい、としている。
 区によると、2日午前10時ごろ、巡回していた区職員が1階正面入り口前に、紫色の紙袋を見つけた。中にはアンネ・フランクの伝記や文房具、ひなあられなど計34点が入っていた。「入園・入学おめでとうございます。みなさんの毎日が笑顔でありますように。キュアハッピー星空みゆき」という手紙が添えられていた。同名を名乗る人物から神奈川区への寄付は、昨年12月と今年1月にもあったという。

ドワンゴ「受験料制度」の「厚労省から中止を求める行政指導」報道に見解述べる

芸能ニュースラウンジ 2014年3月03日

 株式会社ドワンゴが2015年度新卒入社試験から「受験料制度」を導入するとしていたことに「厚生労働省より行政指導を受けた」と報じられたことについて、3日付の同社公式サイトで行政指導の内容や、同社の見解について述べている。
 今回の「受験料制度」は「企業の側も受験生が多すぎて、採用の手間ばかりが増えて、本当に必要な人材を見極める十分な時間をかけることが難しい、そういう状況にあります。こういう就活生も企業も苦しんでいる現状になんとか一石を投じられないか、ということで、今回、入社試験に受験料を設定することにしました」という主旨から設定され金額は2525円となっていた。
 公式サイトでは「『受験料制度に対する、厚労省から中止を求める行政指導』報道について」とのタイトルで掲載されており、「本件に関して、厚生労働省からの要請により、2014年1月中旬に制度の主旨などに対するヒアリングが行われ、2月中旬にその結果についての伝達を受けました」という。
 その内容については、「『職業安定法 第48条の2』に基づき、厚生労働省より来年以降の受験料徴収の自主的な中止を求める旨の『助言』を受けました。今回は『助言』として口頭のみで行われ、書面等の受領はありません。弊社からは、来年度以降の実施については、今年度の結果をみて判断したいと回答しています」と、そのときのやりとりを明かすことに。
 厚生労働省側の説明についての同社の理解として、「同様の取り組みが社会的に広がるなど、『就職』というフェーズにおいてお金を払える人だけが採用試験を受けられる状態になってしまうことを大変危惧している」「受験料の徴収が『報酬』にあたるのではないかとの見解があるが、職業安定法の『労働者の募集における報酬受領の禁止』について『報酬』の位置付けが明確でなく、同省関係者でも意見は分かれている。現時点で違反性、違法性が認められているわけではない。来年度以降の社会的な影響や問題意識の広がりに応じて法改正や規制強化をせざるを得ない状況になるかもしれない」という。
 それに対して同社は、「入社採用試験に際して1人の受験生が100社以上もエントリーしている状況が正常であるとは言い難く、受験生、企業の双方にも大きな負荷がかかっておりこうした状況を解消すべきと考えています」「お金を払える人だけが採用試験を受けられることで、収入格差によって就職の機会が奪われる可能性があるという指摘については否定しませんが、現在の弊社の受験料2,525円が収入格差により就職の機会を奪うほどの高額であるとは認識していません。また、将来的な可能性ではなく、現時点においても地方に在住する学生は交通費などの経費負担が大きいため首都圏の学生と比較して金銭的な理由からも就職の機会を奪われている状況にあると考えています。弊社が一都三県(東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県)からのみ受験料を徴収するのは、この格差を多少なりとも軽減する狙いです」と、見解を発表している。
 今後について同社は、「昨年以前と比較して、応募者の評価にじっくりと時間をかけられるようになり、また、昨年よりも応募者の質が向上していると感じています。こうした状況からも施策は成功しており、現段階では来年度も受験料制度を継続したいと考えています。今後は内定者の承諾率などもあわせて施策評価を行い、来年度の実施について最終判断する予定です。同時に、厚生労働省と継続的な意見交換等を行い、本件について適正に対応してまいります」と、対応を明かしている。

奥むめお 「働く女性」の基盤築く ヒロインは強し(木内昇)

日本経済新聞 2014年3月2日

 職業婦人が増えたのは、関東大震災後である。丸の内では勤め人の一割を女性が占め、職種もタイピスト、事務員、教員と多彩になった。が、仕事は補佐的で、給与も男性の半分程度、しかも世間的にはまだ賤(せん)業視されていた。
 女は家を守るものという不文律は明治大正でも健在で、働きに出ることは「女工哀史」に代表されるように貧しさの象徴だった。しかしその一方で、女性の権利を唱える動きも出ている。震災より少し前、平塚らいてう、市川房枝を中心に、婦人の地位向上を目指す新婦人協会が発足した。なにしろ当時の治安警察法では、婦人が政治的演説を傍聴することが禁じられていたほど。実質的に社会と隔たった存在だったのだ。
 主婦として暮らしていた奥むめおを、らいてうが訪ねたのはこの頃である。婦人運動への誘いだった。大学卒業後、雑誌「労働世界」の記者として働いたむめおだったが、妊娠中ということもありはじめは躊躇する。が、「もしこの時において、婦人が立たなければ未来の社会もまた婦人を除外した男子中心のものとなるに相違ありません」という新婦人協会宣言に共感し、出産ののち赤子を背負って、活動に参加するようになる。
 治安警察法改正に奔走し、活動を広めるため機関誌「女性同盟」も発行。貴族院本会議で「女子の本分は家庭にあり、女子が政治上の運動をして悪い結果をもたらすのは歴史において証明済み」とトンデモ意見が議員から飛び出しても諦めず、二年がかりでようやく法改正に漕ぎ着ける。ところが肝心の女性たちは演説を聞きに来るわけでもなく、政治にも依然無関心。この現実を目の当たりにしてむめおは愕然とする。
 今のままの状態で婦人参政権運動に移っても、一般女性の意識が変わらねば画餅に終わる――そう悟ったむめおは他の婦人運動家とは異なる道を辿る。職業婦人社を結成して女性の仕事の場を広げると同時に、消費生活を通して社会のからくりを学べるよう婦人消費組合協会を作った。これによって児童福祉、税制改革が女にも身近な話題となるわけである。
 家庭と仕事を切り離さず、両立できる環境を目指す。現代から見ても先鋭的な考えを彼女は具現化していた。「わたしが思う政治運動とは、平々凡々な女の日常生活のなかに政治を見出し、その道を光あり、幸ある明るいものにすることです」。戦後は自ら議員となり、「生活の合理化なくして女の解放はない」と九十歳過ぎまで現役で婦人問題を扱い続けた。
 働く女性が一般的になったのは、先達の苦心があったからこそ。けれど未だ環境は万全とは言えない。託児所不足などの問題がある反面、若年層には専業主婦願望も増えている。選択肢が増え、女の在り方はひとつの物差しで計れなくなった。既婚未婚、仕事を持つ、家庭に入る。対男ではなく、今度は女同士が互いの選択を尊重し合うことで、真の「解放」への足場が固まるのかもしれない。
■主婦の立場から運動
 1895~1997年。福井県の鍛冶屋の長女に生まれる。母が多産の果てに若くして亡くなったこともあり女性の生き方に関心をよせる。日本女子大学校卒業後、「労働世界」の記者として紡績工場に潜入。女工として働く。婦人の政治的権利を得る活動から、女性解放運動へ転向した際は同志から非難も浴びた。戦後は主婦連合会の会長に就任。議員活動のかたわら、主婦の立場に立った運動を行った。
[日本経済新聞朝刊女性面2014年3月1日付]