日本初、ソーシャル・インパクト・ボンドで養子縁組推進

オルタナ  2015年4月13日

日本財団は4月15日、横須賀市と特別養子縁組を推進するパイロット事業に関する調印式を開く。同事業の実施には、「ソーシャル・インパクト・ボンド」という社会的インパクト投資モデルを試験的に採用し、これは日本初の取り組みだ。社会的養護を必要とする子どもに家庭環境を整備し、自治体の公的コストの削減も目指す。(オルタナS副編集長=池田 真隆)
ソーシャル・インパクト・ボンドとは、行政が取り組んでいない事業を、民間投資で行い、行政がその成果に対する対価を支払うことを指す。事業の実施による社会的コストの削減分や納税・社会保険費支払いなどの増加分が償還の原資となる。公的サービスの生産性向上や、財政負担の軽減が期待できる。今回、試験的に採用することで日本初の試みとなる。
横須賀市には2つの児童養護施設があるが、それだけでは足りず市外の施設も利用している状態だ。同事業で、行政の経済的負担を軽くし、施設養護から家庭養護への移行をさらに加速させる。
産みの親が育てることのできない子どもは日本に約4万人いる。そのうち約85%が施設で暮らしている。一方で、日本での養子縁組希望者や里親希望者は急増しており、1万人程度いると推計されている。しかし、行政による里親委託は2013年度に約4600人で、海外主要国と比較し、施設で暮らす子どもの割合が極めて高い状況だ。
養子縁組だけではなく、ソーシャル・インパクト・ボンドの導入は、就労支援・高齢者医療・再犯防止などの領域で検討されている。

「特別養子縁組についてもっと知ってほしい!」- 4月4日“養子の日”、日本財団が啓発イベントを開催

マイナビニュース  2015年4月13日

特別養子縁組とは?
日本でも“養子”という制度は古くから行われてきた。ただし、そのほとんどが「普通養子縁組」。一方、養子には「特別養子縁組」もある。4月4日、渋谷ヒカリエのヒカリエホールBにて、特別養子縁組についての理解を深めてもらうためのイベント「4月4日養子の日キャンペーン ~大人たちから子どもたちへ 『家庭』という贈りもの~」(主催:日本財団)が開かれた。会場には約250人の参加者が訪れ、出演者の熱いメッセージに耳を傾けていた。
イベントは午後1時、一般社団法人ベビー&バースフレンドリー財団代表理事の大葉ナナコ氏の総合司会でスタート。まずは当イベントの主催団体である日本財団の理事長・尾形武寿氏が登壇し、「子どもは両親と一緒に生活するのが望ましい。しかし、何らかの事情で親と一緒に暮らせない子どもたちもいる。いま日本では、こうした子どもたちが約4万人いるが、養子縁組を経て一般家庭に引き取られたのは(2012年時点で)わずか1%、400人程度にすぎない。日本中でこうした子どもたちを大事にしていこうという大きなうねりを起こし、子どものための社会をつくっていきたい」と挨拶した。
ところで、いわゆる養子の制度には「普通養子縁組」と「特別養子縁組」があるが、両者はどのようにちがうのか? 一般的にいう“婿養子”や家の跡取り、再婚に伴う連れ子の養子などは普通養子縁組に該当する。一方、特別養子縁組は、養子にできるのは6歳未満とされており、これは何らかの事情で産みの親の元で暮らすことができない子どもに永続的な家庭を提供するための「子どもの福祉」を目的としている。 このほか、普通養子縁組は、戸籍に「養子」あるいは「養女」と記載され、親子関係も産みの親・養親ともに認められている。一方、特別養子縁組の場合、戸籍には実子と同様(たとえば「長男」「長女」など)に記載され、養親のみが“親”となり産みの親との法律上の関係は消滅する(ただし、戸籍には「民法817条の2による裁判確定日」などが表記され、子どもの出自を知る権利は守られている)。特別養子縁組という制度は、残念ながらこの日本でまだまだ浸透しているとはいいがたい。それを周知させ、理解を深めようという目的で開催されたのが、今回のイベントなのである。
次いで登壇したのは、女優・タレントのサヘル・ローズ氏。「かぞくに、なる。」と題して講演を行った。サヘルさんは、まず“戦争孤児”として暮らしてきた自らの歴史を語った。イラン・イラク戦争(1980~88年)のさなかにイランで生まれたサヘルさん。12人きょうだいの末っ子だったが、空爆により両親ときょうだいをすべて亡くしている。「戦争や紛争で親を亡くした子は、私もそうですが、自分の本当の名前を知りませんし、本当の年齢、誕生日も知りません」とサヘルさん。4歳で養護施設に入った頃は、「お母さんみたいな人を求めていた」という。
7歳のとき、サヘルさんの前にひとりの女性が現れた。「天使だと思った。初めて見た彼女のことを、お母さんと呼んでしまった」。その瞬間、女性はサヘルさんを引き取ろうと決意。サヘルさんは、“血のつながりがない母”の子になった。「ほしかった家族を、やっと手に入れることができた」とサヘルさんは振り返る。その後、母とともに来日。サヘルさんいわく“給食のおばちゃん”をはじめ、さまざまな日本人と出会い、支えられて、今日に至る。家族を求め続け、7歳にして養子という形で家族を手にしたサヘルさん。「日本もひとごとではない」と続ける。
「母とは血のつながりはないけれど、心と心がつながっている。彼女と出会ったことによって、帰れる場所ができた。ただいま、おかえりなさいと言ってもらえるのは幸せなこと。いま施設で生活している子どもたちひとり一人に、血のつながりはなくても家族として生きることができると伝えたい」と語った。

家族をテーマにした映画も上映
続いて、トークセッションI「『こうのとりのゆりかご』と赤ちゃん縁組」がスタート。Part1ではサヘルさんの進行のもと、赤ちゃんポストで知られる「こうのとりのゆりかご」を展開する慈恵病院(熊本)の理事長・院長である蓮田太二氏、元同病院看護部長・相談役の田尻由貴子氏が登壇した。蓮田氏は「こうのとりのゆりかご」を作ることになったきっかけは2004年にドイツ視察で見た赤ちゃんポストであったとし、「ドイツでは、預けられた赤ちゃんが施設ではなく、みんな家庭で育つということになっており、それが心に響いた。日本では施設で育てるのが当たり前になっているが、赤ちゃんは家庭で育てることがとても大事。特別養子縁組により、養子を希望するご家庭で子どもをしっかり育てるほうがいい。社会や行政が、その大切さを理解してほしい」と述べた。
田尻氏は「預けにくる親は、20歳未満が20%、20代が43%。中学生、高校生、専門学校生などが妊娠してしまう現実がある。背景は人それぞれで、妊娠してしまった人を責めないのが大事。本人がいちばん心を痛めているので、すべてを受け入れ、親身になって聴き、共感する。子どもは(特別養子縁組を活用し)どんな事情があっても、家庭で愛情深く育てられるのがもっとも大事」だとした。
Part2ではNPO法人ファザーリング・ジャパン、タイガーマスク基金代表理事の安藤哲也氏、元愛知県児童相談所職員の矢満田篤二氏、そして実際に養子縁組で家族を持った当事者である大木愛氏が登場。まず安藤氏が父親の育児参加の重要性を指摘し、「自分の子どもだけが幸せな社会はない。自分の子どもを幸せにしたいなら、地域で困っている子どもたちや親たちに手を差し伸べて、共に生きていくことが必要」と述べた。矢満田氏は、赤ちゃんを施設に入れずに直接養親に託す「愛知方式」の取り組みを始めた人物。特別養子縁組を先頭に立って推進してきた立場から、これまでの特別養子縁組の事例を紹介した。大木氏は、産みの親と養親への感謝や、真実告知(子どもに養子であることを知らせること)について経験を語った。
トークセッションII「子どもを迎えて」では、安藤氏の司会のもと、特別養子縁組を行った2組の親子が登壇。養子縁組をしたきっかけ、周囲が好意的にとらえて応援してくれていること、真実告知の準備などについて語った。父親のひとりは「やっぱり親ばかになる。愛情を込めて育てるのがいちばん。本当に家族になったという実感がある」、もうひとりの父親は「この子がきて、自分たちふたりはもちろん、自分たちの両親も含めて、みんなが幸せをもらっている。特別養子縁組というが、特別なことをしているつもりはない。世の中に普通にある選択肢になっていくといいと思う」と述べた。
イベントの最後に、血のつながらない家族、障害のある子どもを持つ家族など、家族のつながりをテーマとした映画「うまれる ずっと、いっしょ。」の監督である豪田トモ氏とサヘルさんの対談が行われた。豪田氏は、「今回の映画では、家族ってどうやってつくっていくのか、血のつながりとはなんなのか、というところをご覧いただけたらうれしい。キーワードは『向き合う』。血がつながっていようがなかろうが、向き合うことが、人生にとって大切」と、映画に寄せる想いを語った。
イベントの終了後、映画「うまれる ずっと、いっしょ。」が上映され、4時間に及ぶイベントは盛況の中で幕を閉じた。

アスペルガー症候群の特性と犯罪――『アスペルガー症候群の難題』著者による解説

SYNODOS -シノドス- 井出草平 / 社会学 2015年4月14日

佐世保女子高生殺害事件とアスペルガー症候群
昨今、不可解な犯罪が相次いで起こっていることから、少年犯罪に注目が集まっています。昨年7月に佐世保で中学生が同級生の首を絞めて殺害した事件は皆様も覚えておられるでしょう。容疑者の少女は事件以前にアスペルガー症候群(注)の診断がされていたことが判明しました。
(注)診断名は世界保健機関(WHO)の診断基準であるICDに従って非定型自閉症となっている。本稿では知的障害のない自閉症スペクトラム障害をアスペルガー症候群と呼ぶ。アメリカ精神医学学会の診断基準であるDSMの改定についてはこちらを参照。http://synodos.jp/society/4414
この事件では、殺害後に首と手首を切断していたことが衝撃を与えました。また、その行動を裏付けるように「体の中を見たかった」「人を殺して解体してみたかった」と容疑者少女は語っています。その他に、容疑者少女は過去に、父親を金属バットで殴ったこと、家庭内暴力を原因に家族から離れて一人暮らしをしていたこと、また、小学校6年だった頃には、同級生の給食に薄めた洗剤や漂白剤、ベンジンを混入するいたずらをくり返していたことなどが報道されています。
この事件には通常の理解を越えている部分があります。その部分を理解するのにアスペルガー症候群であることが重要です。アスペルガー症候群が重要なのはこの事件だけではありません。過去にメディアで注目された事件、特に動機や犯行について理解が困難な事件において、加害者がアスペルガー症候群だとされています。2000年あたりからアスペルガー症候群の診断がされた事件をリストにしてみましょう。

●神戸連続児童殺傷事件(A少年・酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)事件)(1997)
●全日空61便ハイジャック事件 (1999)
●豊川市主婦殺人事件 (2000)
●西鉄バスジャック事件 (2000)
●岡山金属バット母親殺害事件(2000)
●山口母親殺害事件(2000)
●長崎男児誘拐殺人事件 (2003)
●佐世保小6女児同級生殺害事件 (2004)
●石狩市会社員女性殺害事件(2004)
●金沢夫婦刺殺事件(2004)
●寝屋川教職員殺傷事件 (2005)
●富山県自宅放火父親殺害事件(2005)
●静岡女子高生タリウム毒殺未遂事件(2005、致死事件ではない)
●町田市同窓女子高生殺害(2005)
●大阪姉妹殺害事件(山口母親殺害事件の再犯)(2005)
●京都宇治小六刺殺事件(2005)
●渋谷区短大生切断遺体事件(2006)
●奈良自宅放火殺人事件 (2006)
●延岡高校生殺傷事件(2006)
●会津若松母親殺害事件(2007)
●香川県坂出市祖母孫三人殺害事件(2007)
●岡山駅突き落とし事件 (2008)
●鹿児島タクシー運転手殺害事件(2008)
●土浦連続殺傷事件(2008)
●津和野祖父母殺害(2008)
●大和郡山市父親殺害事件(2008)
●横浜母親殺害事件(2009)
●富田林市高校生殺人事件(2009)
●豊川市一家5人殺傷事件(2010)

このリストには印象に残る事件が多く含まれています。たとえば、1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件、通称、酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)事件は最も有名な事件です。2000年には、「人を殺してみたかった」と動機が語られた豊川市主婦殺人事件、西鉄バスジャック事件、岡山金属バット母親殺害事件が起こっています。犯人の年齢が17歳であったため、当時「17歳の犯罪」と呼ばれ、大きな社会問題となりました。
昨年の事件と同じ佐世保で、小学生が同級生を殺した佐世保小6女児同級生殺害事件が起こっていました。小学生が殺人を行ったことで社会に大きな衝撃を与えました事件です。また、エリート医師一家殺人として騒がれた奈良自宅放火殺人事件が起こっています。いずれも当時のメディアを賑わせた事件です。
毎年、数件のペースでアスペルガー症候群が関係する重大事件が起こっています。昨年は佐世保の事件のほか2件でアスペルガー症候群の存在が指摘されています。1件目は2月23日に名古屋・暴走車無差別殺人未遂事件です。レンタカーで車を借り名古屋駅前の繁華街を車で暴走、人を次々とはねるというものでした。
また、5月25日にはAKB48握手会傷害事件が起こっています。アイドルグループAKB48の握手会で、のこぎりを持った加害者がメンバー2名とスタッフ1名を切りつけるという事件です。不思議なことに加害者はAKB48のファンではなかったといいます。動機として「人を殺そうと思った」「誰でもよかった」と述べています。
これらの事件をみると動機が不可解であるという共通点があります。佐世保の事件では「人を殺してみたかった」と動機が述べられていますが、その動機は理解ができません。AKB48握手会傷害事件でも同様です。犯行にはそれ相応の動機や当人への恨みがあると想定しますが、加害者にはAKB48への恨みなどはありませんでした。
2000年以降に少年犯罪において、特にメディアで取り上げられることが多かった事件で加害者にアスペルガー症候群であるという診断がされています。私たちはこの事実をどのように考えればいいか、そもそもアスペルガー症候群の特性と犯罪性には関連があるのか。このことを科学的な研究を基に論証していったのが『アスペルガー症候群の難題』という本です。

偏見の防止か、介入か
アスペルガー症候群と犯罪には関係があるのか。簡単ではありますが、関連性については後述します。そのことよりも『アスペルガー症候群の難題』という本が何を目的にし、何を意図した本かを先にお話したいと思います。この本のテーマはアスペルガー症候群の特性と犯罪の関連性です。ですから、アスペルガー症候群と犯罪に関連があるということを主張する本だと思われるかもしれません。
ただ、第一の目的は別にあります。この問題について専門的な知識がある人間からすると、アスペルガー症候群に暴力性が伴っているケース、犯罪との関連があるケースが存在することは不思議なことではありません。少なくともそのようなケースに出会ったことはあるはずです。もちろん、そのことを豊富なデータを基に論証することは意味があることだと思います。エビデンスをまとめて整理することで、なんとなく今まで思っていたことが、確信をもった事実になるわけですから、非常に有用です。また、この情報は広く一般的に知られるべきものです。情報を共有するというのは意図の一つですが、第一の目的は以下に記述する倫理的問題にどのように取り組むかということです。
アスペルガー症候群と犯罪というテーマについて考えると一つの倫理的な問題に相対することになります。倫理的な問題が発生するのは、現在の社会的背景を押さえる必要があります。アスペルガー症候群やその特性と犯罪の関連性に言及することがタブー視される現状があります。アスペルガー症候群と犯罪には関係が無いというのが正論だとされていることが多いのです。
また、メディアの事件報道でアスペルガー症候群という診断名の表記も避けられる傾向にあります。犯罪報道で診断名を記載すると、その診断名・病気が原因で犯罪が起こった印象を与えるという批判です。本でも書きましたが、メディアも犯罪報道の中でアスペルガー症候群のような精神疾患の診断名を出すことを自主規制の対象としているようです。
病気や精神障害とラベリングされた人たちに犯罪というネガティブなものを関連付けるのは、常識的には正論とはされにくい。こんな犯罪を行ったのだから、きっと「おかしい」に違いない、病気なんじゃないかという発想です。これはアスペルガー症候群への不当なラベリングだと捉えられるのです。
アスペルガー症候群と犯罪というワードがセットになるとアレルギー反応のように反発があります。出版後、拙著にもそのような反応がみられました。ただ、この批判は紋切り型なのです。実際、アスペルガー症候群と犯罪には関係がないと断言している人もいるのですが論拠がない。先ほど両者には関連がないというのが正論だとされていることが多いと述べましたが、正論だとする根拠は実はありません。
犯罪というのはそもそも大きな倫理的な問題です。犯罪が起こるということは、誰かが傷つき、被害者が生まれます。放置していい問題ではありません。アスペルガー症候群と犯罪には関係がないと断言するだけでは、ダメなわけです。実際に関係があるのか、関係がないのか精査したうえで、もし関連がないなら明確にその事実を示す必要がある。逆に関連が認められたならば、対策を打たなければいけない。本書の問題意識というのはここにあります。
一方で、アスペルガー症候群と犯罪というワードが結びつくことによって、アスペルガー症候群への差別や犯罪予備軍のような見方が生まれる可能性はある。それもまた問題なのです。
あちらを立てれば、こちらが立たずという状態なのです。アスペルガー症候群の特性と犯罪の関連性を精査するには、それをトピックとして取り上げる必要がある。しかし、そのことによって差別が生まれるかもしれない。
アスペルガー症候群の特性と犯罪について詳しく分析し対策を講じる必要がある。犯罪では被害者が生まれるため、原因究明は避けては通れません。一方で、そのような分析はアスペルガー症候群への差別や犯罪者予備軍という見方を広めるかもしれない。
どちらかの選択をすると非難を受ける可能性があます。このような対立状態であるため、言論の沈黙が生まれています。最初にリストを示したように、社会の注目を浴びた事件の中でアスペルガー症候群という診断がされた事件は山のようにあります。もう少し着目されてもいい論点だと思います。しかし、この問題には誰もが納得して、平和な解決を生み出せる「解」が存在しないため、積極的に論じようという人はなかなかいないのが現状です。
拙著では第三の道を示しています。まず、犯罪を予防する手立てがいくつかすでに発見されていること。そして、社会資源の配置を適切にすることによって、犯罪を予防するがある程度可能になることがわかっていることを指摘しています。特に、早期発見を行い、自閉性をもった子どもの育て方を親に伝えることによって、身体的虐待やネグレクトを防ぐことができ、犯罪はある程度は減少することにはエビデンスがある。また、薬理学的アプローチや高密度行動介入など心理療法が有効だという示唆もあります。
アスペルガー症候群への差別や犯罪者予備軍という見方を広まる恐れと犯罪のメカニズムを明らかにして犯罪被害者を出ないことを天秤にかければ、後者の方が重要だと私は考えます。加えて、あらかじめ介入をすることによって犯罪性のリスクを減らすことができるならば、それが最善の道ではないでしょうか。犯罪被害者がうまれることも防ぎ、加害者になる人も少なくできるというのが、現在のところの最善の選択だと考えています。
「偏見の防止か、介入か」という倫理的な問題があると言いました。ここで意見が分かれるでしょう。『アスペルガー症候群の難題』という本は、その対立した利害に対して、介入を行って犯罪率や暴力の発生を減らすという選択肢を示しています。この選択は短期的にはアスペルガー症候群を犯罪者予備軍とみなす人も生むかもしれません。しかし、犯罪を減らす試みを行えば、事実としてアスペルガー症候群と犯罪との関連はなくなるかもしれません。長期的にはその選択が差別やあらぬ偏見なくすことにつながると考えているわけです。

「リベラル」の信心
犯罪と精神疾患の結びつきについて言及することがよくないという考え方は「リベラル」と呼ばれる政治的な立場と大きな関連があります。
アメリカでは公民権運動との関連性が指摘されています。アメリカでは公民権運動が起きてまで有色人種に選挙権がありませんでした。人種差別がなぜ起こっていたかというと、白人は優れている、アフリカン・アメリカン(黒人)やネイティブ・アメリカンは劣等であるという考えがあったからです。ここで重要なのは、人の優劣は生まれつき決まっているという発想です。
公民権運動というのはこのような考え方に異議を唱えるものでした。公民権運動の影響がまだ冷めやらぬ頃、人間の知的機能(IQ)は生まれつきの要素であり、ある程度遺伝によって決まるといったことを述べた学者が大学から追い出されかねない事態になったことがあります。
90年代には『ベルカーブ』というIQを扱った本を巡って論争が起こっています(注1)。『ベルカーブ』という本は科学的研究を基にしたまともな本なのですが、人種差別であると批判が相つぎました(注2)。ちゃんと読めば人種差別などしている本ではないのですが、リベラルの知識人やそのフォロワーにアレルギー反応を起こしたのです。論理的な否定ではなく、感情的否定です。生得的に能力や行動がある程度規定されているということに対して、アメリカのリベラル、リベラルの知識人には強い拒否反応は近年になっても存在しています。
(注1)R Herrnstein & C Murra, 1994, Bell Curve: Intelligence and Class Structure in American Life. Free Press.
(注2)『ベルカーブ』について日本語で読める的確な批評として山形浩生による解説がある。http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20140629/1404049834
日本ではIQに対してそこまでのアレルギー反応はないですが、大なり小なりそのような傾向があります。やはり、生まれつきのものによって何かが決定されるというより、個人の努力で得る論調が歓迎されるのです。もちろん、ここで取り上げている精神疾患と犯罪というトピックについても同じです。
好まれる論調は家族や教育の責任にするというものです。犯罪の凶悪化という悲観論も一般的には好まれます。社会の在り方を嘆いて昔の方が良かったというパターンの話ですね。リベラルに好まれるのは、昔も同じように理解不可能な犯罪が起こっていたため、犯罪が凶悪化したのは誤りであるという論調です。これはこれで間違いではない。しかし、理解ができない犯罪がなぜ起こるのかという問いには何も答えていませんし、現状をより良くすることにはつながりません。昔も今も理解不可能な犯罪があったからと言って、そういった犯罪自体は無くなりません。
そのためには、事実がどうあるのか認識することから始めなければいけない。リベラルの思考の型は伝統的な価値観を否定して、その思考パターンを明らかにします。犯罪では、家族や教育の責任としたり、凶悪化の誤りを正すことができます。ただ、リベラルの思考の型も伝統的な価値観と同じ程度に紋切型です。IQの生まれつきや遺伝的要因を書いた『ベルカーブ』への批判をしてしまうように、精神疾患、それも生まれつきのものであるアスペルガー症候群によって犯罪が起こるということに対しては脳髄反射のように批判的にとらえる傾向があるのです。
科学では、宗教的信条・個人の価値観と科学的事実は分けるということが基本です。立場や信条によって、事実は歪めることはしてはいけない。主観的な考え方から、客観的な科学的事実を切り分けて捉える必要があります。

量的な結びつき
アスペルガー症候群と犯罪は無関連だとすることが正論とされていることが多いと述べました。ただ、研究を丁寧に読んでまとめ、判断を下した人はほとんどいないはずです。しかし、両者には関連がないと言い切る人は少なからずいますし、その中には専門家の肩書を持っている人もいます。根拠もなく言い切る人が多いことは非常に厄介です。というのは、根拠を確認して主張するという合理的な判断がなく、信念や利害関係が絡んで主張がされているからです。具体的には先ほど述べたリベラルの信念や、近親者にアスペルガー症候群の人がいるから問題になっては困るということです。
非合理的な思い込みや主張を科学的合理性でひっくり返すというのは無理だと思います。ですので、拙著のターゲットとしたのは、言論が沈黙しているために、アスペルガー症候群の特性と犯罪には「関係がないのかな」と思っていたり、専門家の肩書を持った人たちが否定するから「多分そうなのかな」と思っている人たちです。
『アスペルガー症候群の難題』は新書という形態ですが、学術形式の引用を大量に行っています。分量も200ページ程度と大変多い。現在行われている研究すべてを引用できているわけではありませんが、研究レビューに近いものになっています。
要約になりますが、量的な結びつきについて簡単に述べます。アスペルガー症候群である者の犯罪が一般にくらべて多いかということです。科学というのは白か黒かではないですし、コホート研究といわれる信頼性の高い研究がこの分野では一度も行われていないので、研究によって結果の数値は大きく違っています。ただ、今までの研究から言えることは、アスペルガー症候群の犯罪率は高いということです。特に日本やスウェーデンではその傾向がはっきりと表れています。
日本では崎濱・十一の研究(注)があります。この研究では、家裁で受理した一般少年保護事件においてアスペルガー症候群がどの程度診断されるかというものです。確実に診断ができているという確信、疑いがあるが情報不足で診断ができない疑診という2つの数値がでていて、確診は6.3%、疑診が7.9%でした。十一は、アスペルガー症候群は6.3%から両者を合わせた14.3%までの範囲で観察されたとしています。
(注)崎濱盛三・十一元三、2004、「非行事例の鑑別における児童精神科医の関与の必要性-広汎性発達障害が疑われた事例の調査をもとに」第45回日本児童青年精神医学会総会
一方で、一般のアスペルガー症候群はどのくらいのボリュームで存在するかという問題があります。自閉症スペクトラム全体の有病率は1%とDSM-5には記載されています。有病率調査や併存症の研究では自閉症スペクトラム障害のほぼ半分が知的障害を伴っていることがわかっています。拙著で使用したアスペルガー症候群の定義は知的障害を伴わない自閉症スペクトラム障害のことなので、有病率は0.5%程度になります。
これらの調査結果から割り算をするまでもなく犯罪への親和性が高いことがわかるでしょう。確診の6.3%という数字だけでも通常の12倍程度になります。スウェーデンの少年更生施設では14%がアスペルガー症候群だと診断がでています(注)。崎濱・十一の確診と疑診を併せた数字と同じくらいですね。
(注)Anckarsäter H, et al., 2007, “Prevalences and configurations of mental disorders among institutionalized adolescents.” Developmental Neurorehabilitation, 10(1):57-65.
もちろん、多くの犯罪はアスペルガー症候群とは無縁のところで起こっています。6%や14%という数字が出ていますが、9割程度はアスペルガー症候群とは無関係の犯罪なのです。ですから、アスペルガー症候群への介入をして犯罪を減少させたとしても、犯罪の多くはなくならないでしょう。
しかし6%や14%という数字は無視していい数字ではありません。アスペルガー症候群の関係している犯罪もあります。犯罪の1割というのは、それなりに多いと言える。それが有病率の低いアスペルガー症候群の診断がされた者によって行われているというのは注目するべきだと思います。
この種の研究を全部紹介することはここでは無理ですが、日本では藤川(2005)やkumagami & Matsuure(2009)(注)の研究で同じ傾向の結果が出ています。
(注)藤川洋子、2005、「青年期の高機能自閉症・アスペルガー障害の司法的問題」『精神科』7(6)、507-11。“T Kumagami & N Matsuura, 2009, Prevalence of pervasive developmental disorder in juvenile court cases in Japan.” The Journal of Forensic Psychiatry & Psychology, 20( 6).
本を出版してから「アスペルガー症候群の犯罪率が高いと信じているのか」と何度か聞かれることがあります。それに対しては信心ではなく、科学の研究結果だと答えています。科学や計量論文を読むリテラシーがある人がアスペルガー症候群と犯罪についての論文を読み込めば、同じ答えが出るはずです。

質的な結びつき
アスペルガー症候群であると犯罪率が高い可能性があるという確率の問題は述べましたが、どのようなつながりが両者にあるのかということを次に述べます。アスペルガー症候群が関係した犯罪にはいくつかの類型に分けられることがわかっています。大きく分けると、(1)社会性の障害が触法行為につながるタイプ、(2)継続する暴力性が触法行為につながるタイプ、(3)常同性が触法行為となるタイプです。このうち1と2について述べます。
まず社会性の障害が触法行為につながったタイプを見ていきましょう。2000年に17歳の犯罪として注目された豊川市主婦殺人事件の加害者少年の例をあげます。彼は「人を殺してみたかった」と動機を語っています。
アスペルガー症候群にはコミュニケーションを直感的に行うことや学ぶことができないという特性があります。これは脳の画像研究でも支持されていることです。相手の考えを推察する際に使用される脳の分野が、一般的な人とアスペルガー症候群の人は異なるという研究結果です。おそらくアスペルガー症候群の人は直感的な理解とは違った理解をして、脳の別の分野を使い思考をしていると考えられます。直感的な学習の代わりに、別の形で考えたり、別の経路で推論をしていたりするのです。この、直感的な理解の代わりに別の経路で考えているというのが重要です。何かわからないことがあると、独特の方法で理解しようとするのです。
豊川の事件の動機を理解するための鍵は「死」の理解です。豊川の事件の加害者少年も「死を理解したい」という考えがあったことが報告されています。「死」を理解する一環でしょうが、不老不死の研究をしたいとも語っています。アスペルガー症候群を持つ人の発達過程では、死を理解するために動物を解剖してみたり、自殺を試みるといった行動が見られることがあります。「死」を直感的に理解できないため、解剖などの実験的行為などの方法で理解を試みるのです。「人を殺してみたかった」という動機は「なんて残酷なんだ!」と思われるかもしれません。しかし、直感的に「死」を理解できないために、選択された方法が人を殺してみるということなのです。「人を殺してみたい」といったような動機が語られる殺人では、アスペルガー症候群の特性の知識があると、非常にクリアに理解ができます。
豊川の事件の加害者少年は「若い未来のある人はいけないと思った」と供述しています。彼は既に人生経験を経て、寿命も短い高齢者の方が殺した方が被害を少なくできると述べています。ここに彼なりの合理性を読み取ることができます。もちろん合理性といっても正しいわけではありません。そもそも人は殺してはいけない、ということが抜け落ちていますから。
アスペルガー症候群の特性が関連した犯罪では、ある部分で思考の飛躍が見られます。豊川の事件では、人を殺してはいけないという部分を跳躍して、殺すなら被害が少ないのは誰かという発想に至っています。思考の飛躍はアスペルガー症候群では珍しいことではありません。もともと、社会性・コミュニケーションの障害と呼ばれる特性に由来するものですから、よくあることです。要するに、そうした障害の特性が殺人に繋がってしまったのが「人を殺してみたかった」という動機の殺人だと捉えることが適切です。
殺人は「死」の理解をするために他者へ危害を加えるケースですが、自殺をして確かめようというケースもあります。自分で死を試みれば何か理解できるかもしれないと思うわけです。ですが、ここにも飛躍があって、死んでしまっては理解も何もないというところが抜けています。自殺の防止という観点からも「死」の理解へのフォローは重要です。
最初にリストであげたような動機の理解が困難な事件は、思考の飛躍を考慮に入れると理解が可能になります。思考の飛躍によって犯罪を防ぐためには、何をしたらよいか、何をしてはいけないか、思考の飛躍がどこにあるかということを逐次指摘していく存在が必要です。「若い人よりも高齢者を殺した方が被害を少なくできる」と言い出したら、「いやいや、殺人そのものがダメなんだよ」と指摘し、粘り強く説明する人が周りにいなくてはいけません。
そのためには、保護者、周囲の人たち、教育機関、専門家の継続的な関わりが必要となってきます。まず、アスペルガー症候群の早期発見をし、乳児期からその子を見守る人たちが特性を理解する必要があります。そのためには、公的なサポートが不可欠です。しかし、残念ながら現在の制度は不十分だと言わざるを得ない。
2つ目のパターンは持続的な暴力性を噴出するパターンです。暴力性を噴出するタイプは触法行為に直接結びついているのではなく、そのほとんどは家庭内暴力として表れています。アスペルガー症候群を抱える家庭の約1割の家庭で家庭内暴力が起こっているという調査があります(注)。アスペルガー症候群と犯罪の問題を考えていくと犯罪という外に向かう暴力性だけでなく、家庭内暴力という内に向かう暴力性にも向き合うことになります。
(注)石井哲夫ら、2006、「青年期・成人期における高機能広汎性発達障害にみられる反社会的行動に対する社会的支援システムの構築に関する研究」『厚労省科研平成17年度研究報告書』。
家庭内暴力は家庭の問題だと考えられがちです。しかし、実際のケースでは想像をはるかに超えた暴力性がみられる場合があって、家族で解決できるレベルを超えています。佐世保の事件では、容疑者少女は父親をバットで殴っていました。そのため、子供と別の家に住むという選択がされていました。そういった選択がされていたのは、おそらく金銭的な余裕があった家庭だからだと思います。生命に危険が及ぶような激しい家庭内暴力があるときには「避難」が推奨されています。ただ、金銭的に余裕のない家庭では、子供のために新しく家を借りたり、家族で別の家に逃げ出すということができません。この場合には、家庭内に鍵をつけた部屋を作り、暴力が収まるのを待つといった方法を取らざるをえません。ですが、これは非常に危険な状態だという認識がされるべきだと考えています。
佐世保の事件では別居という選択をした父親に対して子育てを放棄したという批判もありました。しかし、バットで殴るほどの激しい暴力へどのように対応するのかという想像力が欠けていると言わざるを得ません。教育の力や愛の力で収まるほど現実の暴力は易しいものではありません。
家庭内暴力の問題を家族で解決するというのは難しい。この問題に対しては社会のサポートが必須です。現在は家族への支援が全くない状態です。今後、社会問題として受け止め公的な支援ができる制度をつくっていかなければいけません。例えば、家から避難するための費用を補助するといった制度の整備が必要です。
アスペルガー症候群の暴力性をトピックとして取り上げることに批判もあります。問題のない家庭も少なからずあるのだから、わざわざ取り上げるべきではないということですね。出版後にもそのことは何度か言われました。しかし、問題を抱えた家庭が少なからずあることの方が重要ではないでしょうか。暴力性のトピックを取り上げると、問題のない家庭の人々が不快に思うので控えるべきという意見は、家庭内暴力が起こっている家庭のことは無視をせよ、と言っているに等しいのではないでしょうか。
アスペルガー症候群である人、その家族だといっても様々で、抱えている課題は異なりますし、公的サービスへのニーズも異なります。アスペルガー症候群の当事者、親の中でも声をあげられる人もいれば、日々の問題に対応するだけで精いっぱいな人たちもいます。経済的余裕もなく、暴力から逃れることで必死な家族が、社会やメディアに公的サービスの必要性を訴えら余力があるとは思えません。日々を生きることで精いっぱいのはずです。
メディアやウェブで見られる当事者の声や親たちの声がすべてではないという認識が必要だと思います。アスペルガー症候群の当事者からの反発があったからといっても、一部の当事者が全体を代弁することなどできません。メディアで報道されない事実や漏れ落ちる声を拾っていくことが重要です。家庭内暴力の件に関しても、自力で解決できない問題を抱えている家族のことを考え、公的サービスを提供するように行政に働きかけていくべきだと考えています。

タブーを共通認識にする
『アスペルガー症候群の難題』という本を書いた理由の一つは、犯罪予防の研究を行ったり、対策を共有する動きが2000年代後半から、ほとんどなくなってしまったということが理由の一つです。2000年前半はアスペルガー症候群と犯罪の関係に多くの研究者たちが否定的でした。ただ、2000年半ばになると研究者の間では、周知の事実になります。
専門家の中には、アスペルガー症候群と犯罪に関連がないと言い続ける人が多かったと思います。実際に彼らが正確な知識を持っていたとしても、両者に関係がないと言い続けているうちに、彼らにとってそれが真実になったのではないかと思います。実際に、2009年以降、大きく前進をしたのは杉山登志郎先生の研究だけですし、介入を行って犯罪を予防するといった視点が多くの研究者から失われてしまいました。
アスペルガー症候群と犯罪というトピックはタブーになっていたと言えます。アスペルガー症候群と犯罪の関係について調べた研究は、一般の人たちが読むことのない専門の論文や報告書、もしくは英語で書かれたものに記されています。論文をきっちりと読みこむという作業は「臨床」ではなく「研究」の側が行うことです。日々、臨床に追われる支援者はこうした作業をすることができません。
そういった理由から読みやすく価格も低い新書で情報を提供しようと思ったのです。臨床をしている方々の中には、犯罪に結びつくケースや、一歩間違えれば警察沙汰になるようなケースを担当したことがあるかもしれません。児童だけの支援を行っている人は経験をしていないかもしれませんが、思春期・青年期のケースを持っている支援者は数年間の経験があれば、ほとんどの人に思い当たるケースがあるのではないかと思います。
臨床の方々には、その時に、どのような対応したかという事例報告をお願いしたいのです。現状ではアスペルガー症候群と犯罪のトピックを語ることすら避ける傾向にあるため、実践的な支援方法の蓄積などされていません。各支援者の方法で乗り切っているのが現状です。成功例、もちろん失敗例もあるでしょうが、その方法を集積し、共有することで支援スキルは向上します。
そのために『アスペルガー症候群の難題』という本はアスペルガー症候群と犯罪に関する知見の共通認識を持ってもらえるように書きました。論文や本を隅から隅まで読む時間がなくても、この本を読むとこの分野の研究をほぼカバーすることができます。この本の狙いは、両者の間に関係があるかないかという対立にこだわり、実践に役に立たないことを議論するのではなく、実際の支援法を報告してもらうことによって、支援スキルを上げていくというところにあります。

共通認識を持たないと対策が生まれない
2000年代後半以降にほとんど研究がされていないことに大きな危機感を持っています。アスペルガー症候群の触法リスクは一般のものより高く、また犯罪の根本には突飛な思考がみられたり、継続する暴力性があったりと特殊です。犯罪につながるメカニズムは明らかになってきていますが、犯罪予防をすることや再犯を抑える対策がまだ十分に揃っているとは言えない。
対応策が生まれにくい土壌は、この問題が認知されていないということに尽きます。支援者の間でも正確な認知をしている人は多くはいないでしょう。認識がないならば、対策を考えようということにはならない。研究の世界でも、2000年代後半以降はその傾向が顕著で、ほとんど進歩がない。これは、アスペルガー症候群の犯罪を語ることがタブー視されていった時期と重なっています。
アスペルガー症候群に対する差別や偏見が生まれるからと犯罪との関連性はだんだんと語られなくなってきました。そうなると、研究をしなければならないという共通認識がなくなってくるのですね。その結果、対応策の研究がされないという事態になる。今がまさにそういう状態です。
専門家も沈黙し、報道も沈黙していれば、表向きはアスペルガー症候群と犯罪の関連性はなくなったように思えるかもしれません。ですが、その裏では実際に犯罪が起こり続けています。見えなくなったからと言って、実際には放置をしていいというわけではないのです。
これは専門家や臨床家と呼ばれる人たちへの問いかけでもあります。アスペルガー症候群を持っている方やその親御さんに「触法リスクが増加するらしいがどうすればいいか」と聞かれたときにどう答えるのでしょうか。学者や臨床家など専門家を名乗るならば、適当に逃げるのではなく、明確な根拠をもった答えを持っていなくてはならないと思います。

共生とは何か
『アスペルガー症候群の難題』という本は一見すると共生とは真逆のことを言っているかのように見えるかもしれません。アスペルガー症候群の特性と犯罪に関連があるということは短期的に偏見を生んだり、差別的言動につながる可能性を生み出すからです。しかし、犯罪との関連性について情報を隠したまま、隠されたリスクを社会に押し付けるという考えは、あるべき共生の姿ではないと考えています。少し穿った捉え方かもしれませんが、アスペルガー症候群と犯罪の関係性が明らかになると差別が起こるかもしれないので、誰かが殺されたり、被害を被っても良いと言っているように感じられます。
どのような倫理的立場をとったとしても、社会は犯罪リスクが高いグループを受け入れるべきという考えは間違いです。犯罪リスクが高い可能性があるならば、研究をより厳密なものにして対策を打たなければならない。
しかし、排除をしろと言っているのではありません。そもそも、共生やインクルージョン(包摂)という、どんな人々も受け入れられる社会づくりとは何か、ということの本質的な問題に戻っていただきたいのです。
犯罪リスクがあるとして、社会の中でアスペルガー症候群の人もそうでない人も共に生きていくためには、犯罪リスクを下げることが唯一の解だと考えています。でなければ受け入れる社会の側が拒絶するでしょう。それは差別ではなく、合理的な判断です。そのためには、専門家や臨床家はアスペルガー症候群の触法リスクに対する有効な介入を作り出し、実際の犯罪リスクを低減していかなければならない。共生を実現するには、双方にとって不利益がないあり方を探るべきなのです。
この問題は公的資金を投入して社会として取り組んでいくべき問題です。現在のアスペルガー症候群や自閉症は本人やその親への負担があまりにも大きい。本人や親でできることには限界があります。ほとんどの家庭では毎日をやり過ごすことで精一杯です。
アスペルガー症候群と犯罪の話をすると当事者や家族への攻撃だと捉えられることがあります。しかし、科学的見解であるということとは別に、一つの思い込みがあるということを指摘しておかなくてはならないでしょう。
それは、アスペルガー症候群や自閉症は家族がかかえ、家族が責任を取らなければならないといった考え方です。もちろん家族の負担が大きいという現状がある。しかし、現状と様々なコストやリスクを家族が負担すべきだという価値観とは別問題です。いくら公的サービスが充実したからといって、家族の負担がなくなるということはないでしょう。しかし、行政がより一層の支援を担うべきなのは明白です。
アスペルガー症候群と犯罪の問題も、社会の問題として捉えていくべきではないかと思います。犯罪リスクが下がることは、受け入れる社会の側にとっても良い話ではないでしょうか。問題を放置していれば犯罪被害者が出ます。しかし、介入をすることによって犯罪率を下げる可能性があるなら、そこに介入をすることや財政出動をすることに賛成をする人は多いでしょう。
アスペルガー症候群や自閉症の家庭への支援は決して手厚いとは言えない。公的サービスが著しく不足しているというのがむしろ正確でしょう。結果として、家族にとってもサービスの充足が望めるでしょう。この問題を議論していった結果まで考えあわせると、行政サービスの充実に賛成をする人は多いのではないかと思います。
アスペルガー症候群と犯罪の関連性について語ることによって差別や偏見が生まれるとして言論封殺のようなことをするのは、短期的な損得しか見ていないのだと思います。中・長期的には、事実を明らかにして、現在の段階で打てる手はすべて打ちながら共生の道を探るべきです。
『アスペルガー症候群の難題』という本は犯罪との関係性について書いた本なので、社会的排除を促すように読まれる人もいるでしょうが、積極的な介入がアスペルガー症候群や自閉症の人たちの共生につながると考え書きました。アスペルガー症候群と犯罪というトピックを当人や親の問題として語るのではなく、社会にとっての課題として語り直していく作業が必要とされています。