【性暴力の実相2】家族の性虐待、精神を破壊「(セックス)させなかったらたたかれた」

西日本新聞 2015年9月10日

「夜中に目が覚めるとお父さんの顔が横にあって…。それがすごく嫌だった」。10代後半のアイさん=仮名=が、里親のカズコさん=同、50代=にこう漏らしたのは昨冬のことだった。
幼少期に親を亡くしたアイさんは、小学生になったころ親戚の夫婦に引き取られた。養父から性虐待が始まったのは、小学校高学年のとき。夜に体を寄せてきて「(セックス)させなかったらたたかれた」。

【性暴力の実相1】不安、混乱続く後遺症
回数は週1回ぐらい。殴られるのが嫌で、すぐに終わると思って我慢した。口止め料のつもりだったのだろう。養父はプレゼントを買って来てくれたが、何も知らない義姉たちからは疎まれた。
「暴力を受けている」と、担任の教諭に打ち明けたのは中学3年のころ。アイさんは児童相談所に保護された。「自分がされていた行為の意味を知り、耐えきれなくなったんでしょう」。カズコさんは少女の胸の内を思いやる。

児童養護施設に入所したアイさんは、荒れた。職員を無視したり、突然暴れたり…。集団生活になじまないと判断され、カズコさんの元に来た。
親元で暮らせない子どもたちを、何人も見てきたカズコさんは言う。「性虐待を受けた子は、みんな精神的な問題を抱えている。身体的虐待の子たちと比べて、信頼関係を築くのが難しい」
精神科医である久留米大医学部の大江美佐里講師ら専門家によると、幼少期に身内から性虐待に遭うと人格形成が妨害され、対人関係がうまく築けなくなる。被害が長期間に及ぶこともあるため、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状も重くなり、うつ病なども併発しやすいという。法務省の有識者会議は8月、親子など地位を利用した性暴力については新たな罰則を設けるべきとの意見を示した。
「家族なんかいらない」。投げやりなアイさんを見て、カズコさんは思う。「せめて安心できる家庭のイメージだけでも抱けるようにしてあげたい」

家族から性虐待を受けた被害者の多くは、その後も加害者と顔を合わせることになる。
リカさん=仮名=は小学生のとき、自宅で実父から体を触られ、「気持ちよくしてくれ」と迫られた。そのトラウマから「健全な家族像」を描けず、結婚や出産はしないと決めて、40代まで生きてきた。
母親には、被害は話していない。知れば、自殺してしまうかもしれないと思う。帰省のたび、「孫の顔が見たい」とあけすけに言われると怒りもわいてくる。
約10年前。葛藤に耐えかね、父親を問い詰めた。泣いてわびられた。
「私を育ててくれたのは事実だし、家族がバラバラになるのも嫌。他人が加害者ならば恨めばいいんだけど…」
家族ゆえに、苦しみが複層的に覆いかぶさってくる。

性虐待の脳への影響
福井大の友田明美教授(小児発達学)を中心とした研究によると、子どものころに性虐待を受けた女子大学生の脳は萎縮し、空間認知などをつかさどる「一次視覚野」の容積が平均して18%小さかった。特に11歳までに性虐待を受けた人の萎縮の割合がひどかったという。注意力や視覚的な記憶力の低下などが懸念されるという。友田教授は「残酷な体験のイメージを見ないように脳が適応したためではないか」と分析する。

幼少時の性虐待、救済に道 成人後の賠償請求認定
幼少期の性暴力であっても、それを原因とする病気の発症が20年以内なら損害賠償を請求できる-。最高裁が7月、こうした判断を示し、32年前の加害行為に損害賠償を認める判決が確定した。幼少期の性暴力は受けた行為を理解できず、訴えが遅れるケースが多いだけに、「被害救済の可能性が広がった」と関係者の注目が集まっている。
訴えていたのは北海道釧路市の40代女性。3~8歳のとき親族から受けた性虐待が原因で、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症したとして、2011年、この親族を相手に損害賠償を求めて提訴した。
裁判の焦点は、民法上の不法行為に対して損害賠償が請求できる「除斥期間」(20年)の起算点だった。
加害行為は1978~83年で、ここを起算点とすれば請求権は消滅している。一方、女性はPTSDと診断された2011年が起算点だと主張した。一審釧路地裁は性的虐待とPTSDの因果関係は認めたが、起算点は最後に加害行為があった83年ごろとし、「請求権は消滅している」と訴えを退けた。
だが、二審の札幌高裁は、女性側がPTSDに加えて主張したうつ病について、06年に発症した「新たな被害」と認定。起算点も06年とし、慰謝料や治療費など計3030万円の支払いを命じた。今年7月、最高裁は親族の上告を棄却、高裁判決が確定した。
女性の代理人を務めた寺町東子弁護士(東京)は最高裁の判断を「長年声を上げられずにいた被害者に、希望を与える画期的決定」と評価。ただ、「新たな症状が診断されない被害者は救済されない」として、幼少期の性暴力については、除斥期間の起算点を被害者が20歳になった時とするよう求めている。
性犯罪について、刑法上の時効撤廃を求める声も高まっている。だが、法務省の有識者会議が8月にまとめた報告書は、時間が経過して被害者の記憶が変わり、公判への影響が大きいことなどを理由に「消極的な意見が多数だった」としている。

<児童虐待>警察から児相、通告過去最多 上半期4年で3倍

毎日新聞 2015年9月10日

警察庁は10日、保護者らによる虐待が疑われるとして警察が今年上半期(1~6月)に児童相談所に通告した18歳未満の子どもが1万7224人(前年同期比32%増)に上ったと発表した。上半期の統計を取り始めた2011年の3倍以上で、過去最多を更新した。
児相への通告は、社会的な関心の高まりによる周辺住民からの通報の増加や、警察の取り組みの強化を背景に、増え続けている。1万7224人の被害の内訳は、「生まれてこなければ良かった」といった暴言などの心理的虐待1万1104人(同43%増)▽身体的虐待3882人(同12%増)▽育児怠慢・拒否2144人(同25%増)▽性的虐待94人(同13%増)--だった。心理的虐待のうち、子どもの目の前で配偶者に暴力を振るう「面前DV」が7273人を占めた。
警察が傷害・傷害致死や暴行などの容疑で摘発した事件は376件。8割は身体的虐待だった。被害者となった子どもは386人で、うち14人は死亡した。摘発されたのは387人で、うち実父は172人、実母は83人だった。【長谷川豊】

限定保育士、政府が認定 資格試験、年2回に

琉球新報 2015年9月10日

【東京】政府は9日、首相官邸で国家戦略特区諮問会議(議長・安倍晋三首相)を開き、県などが申請した「地域限定保育士」制度の事業計画を認定した。児童福祉法等の特例として、県内では通常の試験に「地域限定保育士」試験が加わり、年2回の保育士試験が行われることが決まった。
地域限定保育士は3年間各区域内に限って保育士として勤務でき、3年経過後は全国各地で働くことができる。待機児童解消などの効果が期待されている。県の計画認定は道路法の特例に続き2件目となった。

高い競争率、難しい園選び…「保活」のリアル、京都の母親ら本音

京都新聞 2015年9月10日

働きながら子育てしたいお母さんが増えています。子どもを保育園に入れる活動「保活」という言葉も定着してきました。4月から「子ども・子育て新制度」が始まり、入園できるか心配もありますね。来年4月の一斉入所を希望するなら、そろそろ考え始める時期。「待機児童ゼロってほんと?」「どんな保育園を選べばいいの?」。そんな、保活の「リアル」を探ってみました。
「保活」って、具体的にどんなことをするのか、園選びのポイントは|。なんとなく耳にしても、わからないこと 「保活」って、具体的にどんなことをするのか、園選びのポイントは―。なんとなく耳にしても、わからないことも多い。京都市内で開かれた「働くための保活セミナー&ママ交流会」をのぞいた。
「入りたい園は、希望者がみんなフルタイム。競争は厳しかった」「結婚を機に辞め、認可外の園に入れながら仕事を探した」「平日も土曜も園に足を運んで顔を覚えてもらい、お礼のメールを送った」。保活の体験談に、会場からは驚きの声が上がった。セミナーは、府の就労支援事業の一環で、育休中や求職中の母親、母親を支えたい夫など約20人が参加。保育士グループによる寸劇を見たあと、保活経験者から話を聞いた。
保活経験のある先輩ママの話は、情報の宝庫。フルタイム勤務の会社員上野ともみさん(34)=京都市下京区=は、昨年秋から保活を始め、今年春に2歳の子どもを保育園に入れた。10カ所以上の園を見学し、納得するまで保育士に話を聞いたという。「ネット情報で園を選んでも、見学に行くと、イメージと違う。足を運び、先生に子育て相談をすれば価値観を知ることができるし、園との相性もなんとなく分かる」と助言。「自分の感覚を大切に。納得して入園すれば、園への不信感もなく、入園後も信頼関係を保ちやすい」
自営業の母親(31)=右京区=は、0~2歳を小規模保育、3歳から保育園に入れた。「夜間に相談ができたりケアが手厚く、子どもに寄り添ってくれた。見学した認可保育園のなかには、抱っこしない主義だったり、風邪で休んでくれると楽でいい、と言う先生もいた」という。希望以外の園や小規模保育、認可外保育も、比較対象として見学に行くことを勧めた。
参加者からは、復帰後の働き方や復帰時期などについて質問が相次いだ。1月に出産し育休中の会社員村上記子さん(35)=南区=は、勤務時間が長い上に夫の帰りも遅く、復帰後の子育てが不安な様子。時短を選ぶと入園の優先順位が下がるため、フルタイムで復帰するか考え中だ。「早く帰れないことを思うと、できるだけ長く子どもと一緒にいたい。でも、1歳を超えると定員がいっぱいになる」と悩む。
夫婦で参加し、「復帰後の妻をどう支えれば」という夫の質問も。先輩ママたちは「復帰直後はとにかく体がしんどい。機嫌を取るとか中途半端な関わりでなく、少しでも子どもを抱っこをしたり家事をして」と口をそろえた。復帰後すぐに家事に取り組めるよう、育休中から練習することもアドバイスした。

ホームレスと生活保護―横浜・寿町から見える日本 – トム・ギル

nippon.com 2015年9月10日

日本人もあまり知らない「ドヤ街」
日本のいくつかの都市には「ドヤ街」と呼ばれる地区がある。「ドヤ」とは「宿」を逆さ読みにした言葉で、料金の安い簡易宿泊所を指す。「ドヤ」がたくさん集中している場所が「ドヤ街」。英語で言うなら「skid row」が最も近いだろうか。いずれにしても、主に男性が暮らすスラム街のような場所だ。有名なのは、大阪の釜ヶ崎、東京の山谷、そして横浜の寿町である。
ホームレスと生活保護―横浜・寿町から見える日本(元記事はこちら)
ドヤ街はなにがしかの事情を抱えた人々の最後の避難場所だ。職を失った者、結婚に失敗した者、家賃を払えず住む家を失った者、刑期を終えて刑務所を出たものの行き場がない者。そんなわけありの人間でも、ドヤ街でなら受け入れてもらえる。身分証明書を提示したり、手付金や保証金を用意したり、保証人を立てたりできなくても、安い料金で宿泊することができるのだ。以前なら、食・住には困らない程度の賃金をもらえる日雇い労働にありつくこともできた。
ドヤ街の存在を知る日本人は、実はそれほど多くない。知っている人には、社会の最底辺で生きる人間のたまり場というイメージである。そうした人々の姿は、1960年代のフォークソング「山谷ブルース」(岡林信康)や、演歌「釜ヶ崎人情」(三音英次)などに描かれている。

バブル崩壊で労働者の町から福祉の町へ
私の勤める大学のキャンパスは横浜市にあるが、その「地元」のドヤ街、寿町は、横浜市中心部の一等地にある。周囲には横浜DeNAベイスターズの本拠地である横浜スタジアムや、人気のショッピングエリア・元町、さらには中華街などが隣接する。町の中でハングルの看板を見かけることはほとんどないが、寿町にある簡易宿泊所の多くが在日朝鮮人の経営であることから、コリアタウンの顔も持つ。
そんな寿町をはじめとするドヤ街の研究を始めて20年余り。ドヤ街は労働者の町から福祉の町へと大きな変貌を遂げた。
1993年に寿町を初めて訪れた時、簡易宿泊所に寝泊まりする人の多くは日雇い労働者で、みな毎朝4時か5時頃には起き出して仕事を探しに出かけていた。寿町には、主に暴力団関係者が日雇いの仕事を仲介する「寄せ場」という路上労働市場に加えて、厚生労働省と神奈川県がそれぞれ管轄する職業紹介所が2カ所あるのだ。
ところが90年代半ばになって、日雇い労働者の生活事情は一変する。90年代初めにバブル経済が崩壊し、日雇い労働の需要が激減したためだ。日雇い労働の多くは建築関連であり、日本の建設業界は、受託業者・下請け業者・孫請け業者というピラミッド構造になっている。その底辺に位置するのが日雇い労働者で、彼らは現場が忙しい時だけ臨時労働者として雇われる。そのため、バブル崩壊による不動産価格の急落の影響は深刻で、職業紹介所では、シャッターが開く6時15分の何時間も前から列を作って、少しでも有利なポジションを陣取ろうとする労働者たちの姿が見られた。
やがて90年代の終わり頃になると、多くが仕事探しを諦め、職業紹介所には閑古鳥が鳴き始める。同時に簡易宿泊所の宿代を払えずにホームレスになる人が増え、路上で寝泊まりする人の数は寿町近辺で数十人、周辺の関内駅や横浜スタジアムの軒下では数百人を数えた。

「自立支援法」でホームレス減少
近年、横浜市のホームレスの数は以前に比べるとかなり減少している。これは全国的な傾向で、公式発表によれば、2014年に日本で路上生活を送るホームレスの数は7508人と、2003年の2万5296人から大幅に減少している。
その理由の1つに挙げられるのが、2002年に施行された「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」だ。同法は10年間の時限立法だったが、2012年に期限が5年間延長された。この法律に基づいて国と地方自治体は、ホームレス状態になった人々を路上生活から脱却させ、社会復帰を手助けするべく、自立支援施設の建設を進めた。
寿町にある「はまかぜ」も、ホームレス支援のための施設だ。ホームレス支援目的で建設された恒久的な建物という点では日本ではユニークなのだ。地上7階建てで、ベッド数は合計250台(男性用が230台、別の階にある女性用が20台)。主に4人から8人で1部屋を使う形式になっている。
利用期間は低層階で最長30日間、上層階では最長180日間と定められており、上層階を利用できるのは、就職が決まって賃貸アパートなどで暮らすための資金を貯めている人に限られる。ただし低層階も、最低1カ月の期間を置いて申請すれば再入所することができるので、利用者の中には、1カ月をはまかぜで暮らし、次の1カ月を路上で過ごすというサイクルを繰り返している者もいる。

寿町の8割が「生活保護」受給者
「自立支援法」と並んでホームレス減少の大きな要因となったのが、生活保護の受給者の増加だ。生活保護は日本の重要なセーフティーネットで、日本国憲法第25条に基づいて、すべての国民の「健康で文化的な最低限度の生活」を保証するために設けられた制度である。
かつてドヤ街で暮らす人々は、決まった住所を持っていないことを理由に生活保護の支給を拒否されることが少なくなかった。これは生活保護法に規定されたルールではなく、各自治体が独自に定めた方針なのだが、皮肉にも福祉の手助けが最も必要な人たちが受給の申請を行うことさえできない状況になっていた。
そこで寿日雇労働組合が中心になっていた「衣食住を保証せよ!生存権を勝ちとる寿の会」という組織が行政に強く働きかけ、90年代半ばには永久的な居住地が生活保護の受給要件ではなくなる。その結果、生活保護の受給者が急増した。寿町の簡易宿泊所に暮らすおよそ6500人のうち、20年前はほとんどが日雇い労働者だったのが、今では8割以上が生活保護に頼っている状態である。

深刻な財政赤字のジレンマ
日本の生活保護は、諸外国に比べるとかなり寛大である。支給額は月額およそ8万円で、家賃補助がおよそ5万円まであり、しかも医療費は無料だ。無駄遣いさえしなければ家賃と食費は十分に賄える。かつて日雇い労働者は使い捨ての労働力として都合よく使われ、年を取ったり体が弱ったりしたらお払い箱にされて、野垂れ死にを強いられることもあったが、それに比べたらずいぶんと「人間的な」社会環境になったといえる。
ただし、この状態が長くは続くとは思えない。寿町で生活保護を受給するおよそ5000人は、巨大な氷山の一角にすぎないのだ。全国の生活保護受給者の数は、過去最低の88万2千人だった1995年以降、年々増え続け、2014年6月には215万8千人に達した。その一方で、国が抱える借金は1000兆円を超え、寿町のある横浜市も財政赤字に悩まされている。いずれは生活保護の支給額を減らさざるを得なくなるだろう。実際、政府は2013年、生活保護基準を最大で10%引き下げる決定をした。
幸い今のところ、寿町の高齢化した元日雇い労働者たちはまずまずの老後を送ることができている。町の中に次々と建設される介護施設で介護を受け、食事の世話をしてもらい、必要なら車椅子でデイケアセンターに連れて行ってもらうことも可能なのだ。大都市の最底辺で暮らす人々に対して、これほどきちんと福祉の手が差し伸べられているという事実に、私は感銘を受けずにはいられない。