いじめの有無だけでなく、自殺予防の観点で調査を

NewsCafe 2016年3月2日

3月は自殺対策強化月間です。日本では平均して、年度末になる3月が自殺が多くなります。平均して、と書いたのは、2011年の場合は例外でした。3月に東日本大震災が起きたために、社会に緊張感が生まれ、また、死やいのちを意識したことが多かったためでしょう。ただし、2ヶ月後の5月には自殺が増えたのです。その震災も5年目になろうとしています。
子どもの自殺で最近注目されたニュースとしては、大阪市立桜宮高校バスケットボールの主将だった男子生徒の自殺があります。遺族は、生徒が自殺したのは顧問=懲戒免職=による繰り返された体罰によるのが原因として、大阪市に約1億7400万円の損害賠償を求めていました。2月24日、大阪地裁(岩井伸晃裁判長)は、自殺と体罰との因果関係を認めました。市に対しては7500万円の支払いを命じました。大阪市は控訴しない方針とのこと。
判決によると、元顧問は1994年の就任当時から暴力を繰り返してきました。男子生徒が自殺する一年以上前から、暴力を告発する通報が市には寄せられていたといいます。しかし、それを市は事実上、放置したのです。元顧問の行為は「教育上の指導として法的に許容される範囲を著しく逸脱した虐待行為」と断じました。
文科省は部活動指導のガイドラインとして、特定の生徒に対して、執拗、過度に肉体的、精神的負荷を与えることを禁じています。例えば、野球部では、野手とは違って、投手は特別な練習メニューをこなさせることになります。しかしこの場合、一定の合理的な根拠があります。陸上部の長距離の練習でも同じことが言えます。問題は、そうした合理的な根拠以外の場合です。
桜宮高校バスケットボール部での体罰はそうした基準にわかりやすく違反していたことで、裁判所も遺族側の勝訴の判決を出しました。また、市側も控訴しないといいます。
しかし、自殺問題となると、生徒間のいじめなど難しい問題が生じます。そもそも、いじめは加害者側が固定メンバーとは限りませんし、発覚しないようにするものです。他の生徒との力関係によっては、口止めをするような性格のものです。
いじめによって自殺、あるいは自殺未遂、もしくは長期の不登校なるといった「重大事態」になれば、いじめ防止対策推進法によって、家族あるいは遺族(以下、遺族)は学校もしくは設置者に調査委員会の設置を要請できます。しかし、「いじめの有無」「いじめがあった場合、学校が認識できたか」「認識していた場合、自殺などを予見できたか」などが焦点になります。
もともといじめは隠蔽をしようとすればできる可能性があるものです。遺書やメモに加害者の名前がない場合もあります。ラインやツイッター、ブログ、メールを見ても、具体的な加害者、加害行為がわからない場合も多くあります。その場合、いじめそのものが認定されません。そして、まるで、いじめがなかったのだから、自殺したは家庭の問題、あるいは本人の性格の問題かのように言われてしまうのです。
万が一、家庭の問題、あるいは本人の性格の問題だったとしましょう。それで、学校は子どもの自殺に関して無関心でいてよいのでしょうか。文科省では「教師が知っておきたい子どもの自殺予防」と称するマニュアルを作り、学校へ配布しています。学校は子どもの自殺予防も求められるところなのです。
それによると、自殺のサインと対応、自殺予防のための校内体制、自殺予防にための校外における連携、さらには、不幸にして自殺が起きてしまったときの対応が書かれています。このマニュアルでは、自殺の原因を「いじめ」に限定していません。 そして、自殺直前のサインや対応の原則も書かれています。
すべての教師がこうした知識を持つことが理想ですが、現実には一部の教員に偏らざるを得ません。関心の強い教員や担当教員、養護教諭、スクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカーなど、校内の他職種の人たちとの日常的に情報交換することが求められます。場合によっては児童相談所や警察とも必要になります。
またマニュアルでは、遺族のケアをすることになっていますが、私が最近、取材した複数のケースは、ケアがなされていません。もちろん、取材するケースは学校との関係ではない場合もあります。だからとって、拒否されたら仕方がありませんが、ケアをしなくてもいいということにはなりません。
さらに、調査委員会が開かれると、学校側が多くの資料を提出します。しかし、中立公平の観点から、遺族は調査中にそうした資料を見ることができません。私が取材したいくつかのケースでは、学校での資料を見るために、情報公開請求しています。遺族の知る権利が十分ではありません。
子どもが自殺した場合、現在、いじめの有無が議論されることが多いとは思います。もちろん、それも大切なことです。しかし、なぜ学校では自殺のサインや予兆を見逃したのかという観点も必要になります。遺族が知りたいのはなぜ子どもが自殺をしたのか?、自殺は止められなかったのか?ということです。いじめだけに固執しない調査が求められます。

児童虐待ダイヤル、案内長すぎ? 7割が途中で切れる

朝日新聞デジタル 2016年3月2日

児童虐待の通報などを24時間受けつける全国共通ダイヤル番号「189」について、神奈川県内では約7割の電話が途中で切られていることが分かった。児童相談所につながる前の音声ガイダンスが2分近くと長いことが原因とみられ、県は国に改善を申し入れたという。厚生労働省によると、「ガイダンスが長すぎる」といった指摘が他からも寄せられているといい、改善を検討している。
県議会県民企業常任委員会で、県が明らかにした。「189」は、児童虐待や子育ての悩みなどに応じるもので、昨年7月1日にスタート。「いちはやく」の語呂合わせで、最寄りの児相につながる。
県によると、今年1月末までに1646件の電話があったものの、約7割にあたる1126件が児相につながる前に切られていたという。
携帯電話で「189」を利用した場合、郵便番号の入力が必要となる。郵便番号が不明の場合は、読み上げられる都道府県を選択することが必要で、児相につながるまでに2分近くかかるという。固定電話を利用した場合も、市内局番地域が児相の管轄地域と一致した場合を除き、地域の選択などが求められる。(岩尾真宏)

6人に1人が貧困……それでも子どもの「自己肯定感」を下げないために、大人はどう向き合うべきか 安田祐輔×若新雄純×森山誉恵

現代ビジネス 2016年3月1日

学習を通じて「自己肯定感」を下げないことが大事
安田さんと森山さんは「学習支援」をしていますが、活動を通じて子どもたちの自己肯定感を養ったり、社会で必要なコミュニケーション能力を身に付けたりすることを目的としているのでしょうか?
森山: 私たちは、子ども自身が掲げた目標を応援するためのツールとして学習支援を行っています。子どもたちに目標として何を掲げるかは問いません。必ずしも進学ではなくて、就職のために不登校の期間中に抜け落ちてしまった算数を克服したいという目標を持っている子どももいます。
一番の目的は「目標を応援すること」ですが、それ以外にも学習支援を通じて達成したいと思うのは、子どもたちが多様な人と出会うこと。施設の人は福祉関係者ばかりで、実際の社会に比べて虐待を受けた子どもに対して専門的な立場で接しているので、一般社会における当たり前とは乖離していることがよくあります。
施設において職業的になんでも理解してくれる大人たちか、わが子に虐待をしてしまうような大人たちにしか関わる機会がない子どもたちも少なくありません。世の中にはさまざまな人たちがいて、色んな職業やバックグラウンドもある、ということも伝えていきたいと思っています。
安田: 僕の活動においても学習はあくまで一つのツールです。学習支援は自己肯定感を高める、基礎学力をつける、という2点において大事だと考えています。
若新: 今の日本の教育は、仮に小学校から高校までの12年間一回も挙手をしなくても受験さえうまくいけば東大に入れます。先進国では他の人と議論せずにトップの学校に入れることはないですよ。
昔は必要な知識がある人が有能だったと思いますが、社会で求められる能力は変わってきています。たとえば今は先生の話を受け身で正確に聞く能力だけでなく、質問できる能力も大事になってきています。
安田: 社会に出るために最低限の学力はちゃんと身に付けなければならないと思います。そのうえで質問する力、わからないことがあったら聞くという姿勢は本当に大事です。学校にきちんと通えなかった僕が、普通に自営業で働けていることを考えると、学校で習う事が全ての人に必要なのかはわからなくなりますね。
若新: 僕のおばあちゃんは字が読めますが、書けません。ひらがなが間違っている置き手紙を見たときは衝撃を受けましたね。戦争があって、学校にちゃんと行けなかった。でもだからといっておばあちゃんは仕事ができなかったわけじゃない。電車も乗れるし、バスも乗れるし、ずっと仕事もしていました。
ひらがなも書けない人がなぜ社会でちゃんと生活できるのか。それはおばあちゃん自身が、自分が存在する価値をちゃんと認識しているから。もちろん時代の影響はあるけれど、おばあちゃんはそれでも平然と生きている。そして、僕たち孫はおばあちゃんのことが大好き。
おばあちゃんの場合は後ろめたさがないが、子どもたちには後ろめたさがある。字が書けなかったら馬鹿にされるだろう、と考えてしまう。それは仕方ないことだから大丈夫、という言葉をかけてあげられればしっかりと生きていけるのだと思うのです。
安田: もちろん字が書けないことは問題ですが、もっと恐ろしいのは、そのために自己肯定感を下げてしまうことなんですよね。自分がダメな人間だと思ってしまうことが一番ダメなのだろう、と思いますね。
森山: 私は1年間アメリカの高校に通っていたのですけれども、アメリカでは算数は全部電卓で処理します。二桁の足し算と引き算を暗算でできたら天才と言われたこともありました。社会が計算ができないことをおかしくないと思っていて、その前提で社会が作られているからこそ、成り立つのだと思います。

もっと「裏ルート」があっていい
三人とも自分たちが既存の社会の枠にはまらず、事業を立ち上げるなどして道を切り開いていますが、活動を通じて価値観が変容したことはありましたか?
安田: 僕は普通のレールに乗れている人がずっとうらやましかった。今もそうですが、僕は”普通”になりたくてもなれなかったのです。けれど僕はだからこそ、挫折した人の気持ちがわかるようになり、今の事業を立ち上げることができた。「自分の物語」が築けるようになってからは、自己肯定ができるようになりました。価値観が変容したと思います。
若新: 何かしらを手に入れるにはやはり努力は必要だと思いますが、正規ルートで戦うことばかりが求められているわけではない。日本にも「別ルート」や「裏ルート」が存在します。そればかりで社会を構成することはできないが、自分が努力しやすいルートを見つけることは大事だと思っています。
もっと裏ルートを紹介する塾とかが増えたらいいなと僕は思っているのですが、学校も教師はそのようなことを求めない。人と違う方法で考えるな、と言われますからね。
森山: 私は韓国育ちで、中学二年生の終わりも日本へ来ました。当時は日本語もあまり話せなくて、いじめにも遭ったのですが、母親が「日本語は話せないけれども、その分、韓国語が話せるから、堂々と生きればいい」といってくれました。アメリカに留学もしていたので、「3ヵ国語を話せること、さまざまな国に行ってきたことを強みにしたらいいよ」といってくれたことが印象に残っています。
仕事も日本の組織に合う気がしなくて自分で事業を立ち上げました。”普通”と少し違う道を選んだからこそ、結果的に自分の気持ちのよいところにいられます。もっと違う人を認め合うことができたらいいなと思います。

「問題」ではなく「現象」として
これからの抱負をお聞かせください。
安田: 大学卒業後に入った大企業をすぐに辞めたことが、僕の起業のきっかけでした。起業してからしばらくは「飯を食うために何をするか」ということばかり考えていました。昨年くらいから社員が増えたため、「何度でもやり直せる社会を作る」というミッションを掲げ、会社の方向性を決めました。今年は、発達障害を持っている子どもたち向けの塾も作ります。
困難を抱えている人たちを支援するために、ビジネスで成り立つことはビジネスで、自分が社会に求められていることを10年、20年先もできるといいなと思っています。
若新: 僕は最近「問題」という言葉をできるだけ使わないようにしています。少なくとも日本の教育を受けてきている人たちは、「問題」は「答え」とセットになっています。問題として扱われた側は解決しなくてはいけない存在になる。自分たちの作りやすい問題設定をしてしまう、という悪い癖が社会にはあるのです。
だから「問題」といわずにすべて「現象」と呼ぼうと僕は思っています。たとえば「ニート問題」ではなく「ニート現象」と。過疎化や人口減少という「問題」も、もしかしたらその地域に住んでいる人は問題として扱われないことを望んでいるかもしれない。
これから世の中は複雑になってきて、今までのやり方では簡単に解決できないような事柄が起きると思うので、「問題」という言い方はしないで、「現象」という言葉を使おうと思っています。
森山: 「生きたくない」と思うレベルで悩んでいたり、孤立していたり、絶望していたりする子どもたちが多くいます。
私が3keysを立ち上げた頃は、児童福祉業界において就業体験などプログラム型支援はたくさんあっても、学習支援のような日常に根差した支援はほとんどありませんでした。
しかし今は逆に「福祉=学習支援」になりすぎていると思います。学習はむしろ福祉の観点をもちつつ文部科学省と連携すべきで、福祉が学習支援を担いすぎていると思う。子どもたちに必要なことは、タイミングや状況によってもさまざまで、それに合わせた支援方法があると思います。
私たちは子どもたちがその時々に必要なことを素早く提供できる組織でありたいと思っています。私たちの活動に共通して根底にあるのは「誰も味方がいない」と子どもたちが思わないようにしていきたい、ということ。また個人的な目標としては、自分が人に必要とされたいと思う性格なので、誰かの役に立ち続けられたらいいな、と常に思っています。
今回のCIS(Child Issue Seminar)は、子どもや若者の支援の中で見えてきたことをもとに、子どもたちが自立するための社会のあり方、教育に対する社会の考え方がどう変わるべきかについて議論しました。

困難な状況にいる子ども・若者たちが、自分自身や社会に対して絶望してしまわぬように、彼らの苦しみに気づいた大人たちが手を差し伸べることは重要です。
彼らが置かれている状況を「問題」として捉える前に、「こうすべきだ」という大人の常識を押し付けていないか、を考える。まずは「現象」として捉えることから、子ども・若者たちの状況について議論を深めていくことが大切なのかもしれません。
子ども・若者たちをとりまく「現象」は十人十色で、それに対する支援方法も同様です。彼らがSOSを発信した時に、本人たちが望む支援につなぐことのできる環境は残念ながらまだまだ整っているとはいえません。子ども・若者を”味方がいない”状況に置かず、大人の一方的な価値観で評価せずに、彼らとともに考えていくことが求められています。