あなたの“しつけ”は大丈夫? しつけと虐待の境界線、虐待してしまう親の背景とは

週刊女性PRIME 2016年11月6日

「子どもをつい怒鳴ってしまうのは、しつけ? 虐待?」─そんな悩みを抱える母親が増えている。折しも虐待件数は上昇しており、’90年に1000件超だった児童相談所への児童虐待の相談件数は’14年には約9万件に。この24年間で、約90倍になっている計算だ。
そして、虐待事件で多くの親から出るのは「しつけのため」という言葉。
しかし、子どもの虐待に詳しい山梨県立大学人間福祉学部教授の西澤哲さんは、「しつけと虐待はまったく別。イライラして怒鳴るなど、大人が子どもを自分の感情のはけ口に利用する行為は虐待です」と話す。
とはいえ、育児に追われる日々の中、ついイライラしてしまったときはどうすればよいのか。「まずはお母さん自身を満たしてあげることも必要」と話すのは、アドラー心理学に基づく子育て講座を開く原田綾子さんだ。
虐待としつけの定義から、子どもへの向き合い方までを、2人の専門家の言葉を交えながら解説する。
子育ての中で気がかりな、「虐待としつけの境界線」。最近、もっとも話題になったのは、’16年5月、北海道で起きた男児置き去り事件だろう。いたずらをした小学校2年の男児が父親により山に置き去りにされて行方不明となり、6日後に保護された。この事件をめぐっては、「やりすぎ」と非難する声の一方、「気持ちはわかる」との親のつぶやきも。
一方で同4月、父親が2歳の長男を衣装ケースに閉じ込め死亡させた事件や、’13年に両親が3歳の次男をうさぎ用ケージに監禁し、死に至らしめた事件でも、親は「しつけのため」と語った。

虐待はしつけの延長ではない
しかし、「虐待はしつけの延長ではありません。まったく別ものです」と西澤さんは断言する。では、それぞれの定義とは?
「しつけは、セルフコントロールの力を養うこと。一方、虐待は英語だと“abuse(濫用)”。親が不安定な気持ちをぶつけたり、支配欲を満たすなど、自分の気分をよくするために子どもを利用していれば、それは虐待です」
そして、体罰や怒鳴りつけるなど、子どもに恐怖を与えるやり方は、子どものセルフコントロールの力を破壊すると西澤さんは説明する。暴言や暴力により恐怖を感じると、感情などをコントロールする前頭前野がすくみ上がってしまうというのだ。
「そのときは言うことを聞いていても実は抑圧されただけ。セルフコントロールは学習できません」(西澤さん)

虐待してしまう親の背景とは?
アドラー心理学のプロフェッショナルとして多くの親子を見てきた原田綾子さんは、子どもを怒鳴ったり、叩いたりする親は、自分が満たされていないことが多いと話す。
「人は自分が自分と関わるように、他人と関わります。つまり、子どもに“ダメな子!”と言う親は、自分自身のことをダメだと思っているのです」
西澤さんも「自己評価が低い親は、子どもが言うことを聞かないと、“自分は無能だ”と感じます。だから、力ずくでも言うことを聞かせるのです」という。
また、自身が子ども時代に体罰を受けて育った親は、自分自身の人生を肯定するため、「体罰を受けてよかった」と考える傾向が強いと西澤さんは話す。
もうひとつ危険なのが、「自分の子どものことは、なんでもわかっている」と考えること。「子どもは自分とは違う、別の人間。上司や友人と同じく、言葉での対話が必要な相手です」(原田さん)
親子関係に大切なものとして、西澤さん、原田さんが口をそろえるのが、安心感だ。安心感があってこそ、子どもはセルフコントロールを学習し、自立への一歩を踏み出せるというわけだ。

【セルフチェックリスト】
当てはまるものがあれば、行き過ぎたしつけをしてしまう可能性が。

□ 子どもに反抗されると、自分を否定されたように感じる
□ 自分の子どものことは、自分がいちばんよくわかっていると思う
□ 叱る時は、子どもがした行動よりも性格自体を責める
□ 親としての威厳は、なくしてはならないと思う
□ 子どもに謝ると、親の立場がなくなると思う
□ 子どもの頃、厳しく(体罰を受けて)しつけられてよかったと思う
□ 時によって、怒りの沸点が変わってしまう
□ 自己評価が低く、劣等感が強い
精神疾患に正しい知識を 中学校で当事者が授業

山陽新聞デジタル 2016年11月7日

バリアフリーをめざすメンタルヘルス教育について、万成病院多機能型事業所ひまわり(岡山市)の田淵泰子精神保健福祉士に寄稿してもらった。

「そっと手を差し伸べられる社会にしていかなければならない。誰とでも手を取り合ってこの社会をつくっていかなければならない」
「心は脆(もろ)い、しかし、支え合う心は鋼のように強いという言葉があります。誰かを思いやり、支える心は何よりも強く、温かいものだと思います」
「授業での交流は、知らないでいることの怖さを、心と心の絆の強さを教えてくれました。私たちにたくさんのことを考えさせ、教えてくれた交流の輪がこれから先も絶えることなく広がることを祈っています」
これらは、当事業所近隣の京山中学校と連携して取り組んでいるメンタルヘルス教育「こころの病気を学ぶ授業」を受けた生徒の感想です。その言葉は、私の生きる原動力となっています。

当事者に学ぶ
京山中学校との連携授業を立ち上げたのは2009年のことでした。思春期に発病しやすい精神疾患の正しい知識を学ぶことを目的としています。病や障がいを持つ故の生きにくさを理解して、多様な人たちと生きる感性を育む“共生”を目指した人権教育として実施しています。精神疾患の代表的病である「統合失調症」をテーマに全6時間、2年生全クラスを対象に毎年行っていて、授業は精神医療専門家ではなく、教員自らが担います。生徒にとって一番身近な教員が精神疾患の正しい知識を習得し、危機介入できるスキルを身につけることも目指しています。
当事者参画もこの授業の特色です。6時間目の最終授業は、病と共に生きる当事者グループ5団体30人が講師を務めます。車座になって体験を語り、オリジナルの心のメッセージを歌うライブコンサート、詩の朗読会、フィナーレは中学生も当事者も保護者も一つの輪になってコーラスと宣言で幕を閉じます。「相手の立場に立って、物事を考え、ことばのキャッチボールをしていきたい」「私達が差別や偏見のない社会をつくっていきたい」。宣言には毎回、心を揺さぶられ、未来への希望が湧いてきます。授業の前後に行う「精神疾患へのイメージアンケート調査」では、実施前はマイナスイメージばかりですが、実施後は全てプラスイメージへと変化しています。

心に撒いた種
授業を受けた生徒は通算8回で延べ2400人に上ります。社会人となった際、その心に撒(ま)いた未来への種は、どんな花を咲かせるのでしょうか。病と共に生きにくさを覚えつつ、夢を抱き、今を生きる当事者たちと交わした言葉や笑顔が、心が折れそうな時、自己肯定感が揺らいだ時、人生の分岐点で、一歩前へ踏み出す力や生きる支えとなればと考えています。
今年第9回を迎える「こころの病気を学ぶ授業」が18日から始まります。12月9日に開催する公開授業には、精神疾患の偏見の代名詞であった「精神分裂病」を「統合失調症」に病名変更した立役者である佐藤光源先生(日本精神神経学会元理事長)が講演にお越し下さることとなりました。佐藤先生は学校教育にメンタルヘルス教育が不可欠であることを一貫して唱え、「こころの病気を学ぶ授業」の立ち上げから応援し続けて下さっています。中学生にとって貴重な学びの場となることでしょう。授業準備として、当事者や精神科医と共に先生方との事前研修も積み重ね、回を重ねる度に先生方の機運も高まっています。今年、生徒の瞳はどんな色を湛(たた)えるのでしょうか?

違い受け入れ
2006年、障がい者の権利条約が国連で採択されたことを契機に、厚生労働省は共生社会の形成に向け、インクルーシブ教育システムの構築を重要な課題としています。インクルーシブとは包括的という意味です。差別や争いは“違う”ことから生まれ、“違う”という未知への不安から、偏見や排除が生まれるのだと考えます。互いの“違い”を受け入れ、“違い”を包み込み、学び合う発見や喜びを10代で体験することで、多様な人たちと組み合って生きる力が育まれることでしょう。
今後も「こころの病気を学ぶ授業」の輪を広げ、多様な人たちと手を取り合って生きる醍醐味(だいごみ)を発信し続けたいと思っています。
貧困若年層は、老人と同じく税金で支援せよ

東洋経済オンライン 2016年11月7日

生活困窮者支援を行うソーシャルワーカーである筆者は、若者たちの支援活動を行っていると、決まって言われることがある。「どうしてまだ若いのに働けないのか?」「なぜそのような状態になってしまうのか?」「怠けているだけではないのか?」「支援を行うことで、本人の甘えを助長してしまうのではないか?」などである。
要するに、”若者への支援は本当に必要なのか? ”という疑念である。これは若者たちの置かれている現状の厳しさが、いまだに多くの人々の間で共有されていないことを端的に表している。今回は、日本における福祉システムの転換について提案したい。

若者に資源を再配分するべき
若者たちをめぐる誤った言説が執拗に唱えられ、彼らを支援する施策の発展を阻害してきたことは否定できない。それによって、苦難に陥っている若者たちが先進諸国では類を見ないほど増えている。これ以上、若者たちを支援対象から除外し続けるのであれば、日本の国の存続にかかわるといっても過言ではない。
わたしが強調するのは、前近代的な価値観による若者支援の脆弱さが、少子化や人口減少を直接的に引き起こしており、すでに日本社会の衰退を招いているということだ。NPOにおいて若者支援をしている工藤啓氏ら他の論者も、「惰性で続く伝統的な社会システムや教育システムと、急速に変化した労働市場との齟齬(そご)が若年無業者を生み出す原因となっている」(『無業社会─働くことができない若者たちの未来』工藤啓・西田亮介著 朝日新書)と指摘している。
この前近代的あるいは、工藤氏らが述べる伝統的なシステムや価値観、若者への視点から脱却しなければならない。そして、労働市場の劣化や変化を補うため、社会福祉や社会保障の対象として、若者を位置づけることが重要である。支援量や給付水準を引き上げて、若者への資源再分配を集中的に行う必要がある。

「いかに働かせるか」では限界がある
ところが、実際の若者に対する支援は、先に述べたように、いかに働かせるか、いかに労働市場に統合していくのかという文脈で語られることが大半である。そして、支援関係者などもあたかもそれが重要であるかのように施策を運用し、若者に向かい合っていく。

あくまで働かせることを目標にしている
具体的には、就労支援や労働市場へのアクセス支援を行い、納税者として養成するプログラムを進める。地域若者サポートステーションやニート・引きこもり対策などの目的もおおむね、就労に向けた準備や支援である。
雇用の劣化や労働市場の変容という社会構造の変化があるにもかかわらず、あくまで働かせることを目標にしている的外れな処置がなされている。そこでは社会保障や社会福祉の充実を求め、若者の生活のしにくさを軽減することはあまり重視されていない。
それに加えて、若者支援において決定的に言えるのは、社会資源の不足である。職業訓練や資格取得のメニュー不足は顕著であり、貧困から抜け出したり、再就職に有利なメニューが提供されていない。だから失業しても再就職が容易ではなく、職業訓練内容も脆弱だから、産業間の労働者の移動も起きにくい。つまり、若者支援に必要なメニューに魅力や実効性が欠けているのである。
たとえば、都市部の要介護高齢者であれば、ヘルパー、デイサービス、デイケア、ショートステイ、緊急通報システム、訪問看護、特別養護老人ホーム、有料老人ホームなど、各地域で機能しているか否かは別として、社会資源は豊富にある。これらと比較しても、若者支援のメニューは専門家でも思いつかないほど未整備である。若者の自立を阻む社会システムの不備を指摘しなければ、解決策には行き着かない。困った際に助けてくれる機関や利用できる資源が少なく、若者は簡単に困ることができないでいる。
さらに若者支援施策に足りないのは、給付である。さまざまな支援施策が必要であることは間違いないが、最も重要なことは、所得再分配を強化して生活をしやすくすることだ。非正規雇用であれ、どのような働き方であれ、最低限の暮らしを保障しなければならない。
家賃や教育費の高さ、特別な暮らしをしていなくても、日常生活における支出の多さは若者から自由な暮らしを剥奪していると考えるべきだ。東京都内で一生懸命に働く非正規雇用の若者がひとり暮らしを続けることができるか否かを考えてもらえば、その不可能さ、困難さが見えてくるだろう。一般的なアパートを借りるだけでも、家賃は相当な負担を覚悟しなければならない。
家賃補助制度や教育費の補助など、若者への給付策が講じられなければならないと強く思っている。これらの給付策なき支援は若者支援としては不十分だろう。わたしたちが求めなければならないのは、支援策の充実とともに、給付策の充実である。そう強く主張しておきたい。

あたかもニーズがないかのように
日本の社会保障や社会福祉は相変わらず、対象者を一部の高齢者や障害者、児童を中心に構成している。介護保険法の要介護高齢者、障害者総合支援法の障害者、児童福祉法の児童、生活保護法における要保護者・生活保護受給者など、その対象者を法律によって、狭い範囲で捉えてきた。その対象になれば、不完全ながらもおおむね支援策が提供されるが、それ以外の対象者は、あたかも生活課題やニーズがないかのように扱われてきている。

福祉対象者はあらかじめ定められている
この旧来型の福祉システムでは、福祉給付や支援を受けられる人々が一般的でも、普遍的でもなく、「特別な存在」として位置づけられ続けている。
また、福祉対象化する際も、「本当に困っているのか」「どの程度困っているのか」「なぜ困ったのか」「それは本当か」などと厳しい審査をして、福祉対象にするか否かを選別する。
要介護高齢者などは顕著な例であろう。介護保険の申請から、要介護度を決めて、どの程度の支援量があればよいのか、なかば一方的に決めていく。ひとり暮らしに困難があっても、何らかの支援が必要だとしても、要介護度が低く判定されることもある。
障害者総合支援法では、各種障害者手帳を有する人々には、「障害者」として認識し、福祉サービスを提供する一方で、手帳を有していない人々には、福祉サービスをほとんど提供しない。
生活保護法も厳しい資産調査を課し、収入が一定基準を超え、あるいは貯蓄や資産が一定程度ある人々には、給付を伴う支援を行わない。「極貧状態になってから支援します」という制度だと言ってもいいかもしれない。
このように、日本社会は支援対象を極めて細かく設定している。そうしなければ、限られた福祉予算を必要な人々に配分できないからだ。いつの時代も政府や世論の意向によって、福祉対象者はあらかじめ定められているし、つくられている。
だからこそ、そのような枠組みから漏れる若者や滞日外国人、DV被害者や難病患者、性的少数者(セクシャル・マイノリティ)などでは、ますます困窮度合いを高めている姿が見受けられるようになった。
つまり、若者たちへの支援を行うか否かを決めるのはわたしたちであり、支援が必要ではないと言っているのもわたしたちである。そろそろ貧困世代を明確に福祉対象化し、支援施策の充実を図ってもよいのではないだろうか。