パソコンを使えるのは1時間だけ。施設で育った女子高校生が、どうしても欲しかったもの

BuzzFeed Japan 2017年10月7日

 エリさんは今、仕事で毎日、スマホを使っている。
 スマートフォンの利用率が95%の日本の高校生の中で、スマホを持てず、パソコンのキーボードも指1本で打っている子がいる。18歳で施設を出て自立するのに、インターネットに“免疫”がないまま。情報格差は暮らしの格差に直結します。【BuzzFeed Japan / 小林明子】

美しさは色あせない、古びない。ビジュアルで見る「花椿」の80年
 初めて自分のスマートフォンを手にしたときに感じたのは、嬉しさよりも心配だった。
「料金を払っていけるのだろうか」
 エリさん(仮名、21歳)は、児童養護施設で育った。さまざまな事情で保護者と暮らせない子どもたちが生活する場所だ。
 その施設のルールでは、中学生まではスマホ禁止。高校生は、アルバイトをして自分で利用料を払うことを条件に、持つことが認められていた。他の児童養護施設に比べると、門限もルールもゆるいほうだったという。
 パソコンは共用のものが1日1時間、共用リビングの片隅でのみ、使うことが許されていた。学校の宿題の調べものを急いで終えて、YouTubeを観たり、好きなアーティストの曲を聴いたり。厳しめのフィルタがかけられていて、ゲームをすることはできなかった。

「0円」のスマホ
 中学で不登校だったエリさんは、定時制の高校に通っていた。友達とのやりとりは、LINEやTwitterがほとんどだ。
「LINEでは細かいグループができて頻繁にやりとりしていたので、電話をしてまで他の子を遊びに誘うことはありません。友達の輪に入るためには、どうしてもスマホが必要でした」
 仮に友達が電話をくれるとしても、ガラケーも持っていなかったエリさんは、施設の共用電話を職員につないでもらうしか、受ける方法はなかったのだ。
 アルバイトのめどが立った高校2年のとき、施設長に相談し、携帯電話ショップを訪れた。「0円」と書かれた端末の中にはかわいいピンクやゴールドはなかったけど、カバーが無料でつくというものに決めた。黒くて、ゴツめなAndroidだった。
 ショップのカウンターで身分証明書を求められ、医療機関の「受診券」を提示したら、販売スタッフはけげんな表情をした。児童養護施設や里親のところにいる子どもたちの医療費の自己負担が免除される「受診券」は、通常の「保険証」とは違うため、スタッフは見たことがなかったのだ。同行していた施設長に説明してもらって契約できた。
 ようやく手にしたスマホ。エリさんは、2人部屋の相方である小学生が消灯した後、カーテンで仕切った隣のスペースで机のスタンドだけをつけ、手のひらの中の世界を楽しんだ。施設にはWi-Fiがなく、パケット代を気にしながらだったけれど。

常に「下」に合わせる
 内閣府の青少年のインターネット利用環境実態調査によると、高校生のスマホ利用率は94.8%(2016年度)。このうち92.3%が、LINEなどコミュニケションツールとして利用していた。
 もはや高校生の交友関係において、スマホはなくてはならないツールだが、児童養護施設では前述のように、スマホを持つことは簡単ではない。パソコンの利用やインターネットへのアクセスも制限されている。
 なぜなのか。児童養護施設の子どもたちの自立をサポートするNPO法人ライツオン・チルドレン理事長の立神由美子さんによると、2つの理由があるという。
 1つ目は、インターネット上のトラブルに巻き込まれることを防ぐため。施設の職員は子どもを守るだけでなく、監督する責任もある。子どもにリスクマネジメントを教えるのではなく、リスクそのものに触れさせないようにしがちだ。出会い系サイトやオンラインショッピングにアクセスできないようにするため、共用パソコンにはフィルタをかけ、職員の目の届く場所で制限時間内に使うというルールを設けている施設が少なくない。
 2つ目は、施設内格差を作らないため。家庭の事情によって、まったく親と会えない子もいれば、週末に自宅に帰れる子、親にほしいものを買ってもらえる子がいる。こうした事情や所持品の差は子ども同士のトラブルにつながりかねないため、施設では親からのプレゼントを職員が預かることもあるという。スマホや端末の場合も同様だ。
「多くの施設では、平等にするために、常に”下”の水準に合わせようとします。それでは子どもたちの暮らしは向上しない。体験格差を埋める努力をしてほしいです」(立神さん)

指1本でキーボードを打つ
 児童養護施設で暮らす子どもにとって、情報収集能力を身につけることは死活問題でもある。施設にいられるのは18歳になった3月までで、その後は自活していかなければならないからだ。
「施設を出るときは、それまで使っていた家具・布団などの施設の備品は、持ち出すことはできません。新しい生活、新しい仕事、新しい人間関係を始めるとき、子どもたちは孤独で、大きなストレスと戦っています」
 エリさんの場合は、18歳から20歳までは自立援助ホームで暮らし、アルバイトをしながら専門学校に通って資格を取った。
「私は昔、ワープロを触った経験があったので、パソコンで文字を入力することはできました。施設出身の友人には、指1本でキーボードを打っている子もいて、アルバイトを探すのにも苦労していました」
 2017年2月、NHKの特集「見えない貧困」は、ファッションや所持品などの「物」だけでなく、「人とのつながり」「教育・経験」など外から見えにくい”剥奪”が、子どもの自己肯定感を失わせている、と指摘した。スマホを持っているから困っていない、と一概に言えるものではない。
 テレビや新聞を通じた情報は施設にいても入ってくるが、「インターネットができないことは”経験値の差”につながります」と立神さん。情報を一方的に受け取ることはできても、「情報を自分で取りにいく」「情報を自分から発信する」経験ができないからだ。インターネットに対する”免疫”をつける機会もない。
「まったくITリテラシーがないまま社会に出て、架空請求がきたのに誰にも相談できずに払ってしまった、といったケースもあります。施設にいて大人に相談できるうちに転んでおいたほうが、まだいいんです」

情報格差をなくしたい
 ライツオン・チルドレンでは2014年から、「e2プロジェクト」として、児童養護施設を退所する子どもたちの自立支援のため、パソコン講習会を開いている。
 企業や学校で使わなくなったパソコン、タブレット、携帯電話などの寄贈を受け、売却する。その代金で、再資源化された中古パソコン(リフレッシュPC)を購入し、児童養護施設の子どもたちに贈る。その際、テキストを渡し、2日間のパソコン講習会を必ず実施する。
「施設にパソコンが寄付されることもありますが、使い方や接続の仕方がわからず結局、箱が開けられないままだという話も聞きました。講習は、パソコンを使えるようにする目的と同時に、異なる施設で暮らす子と出会ったり、講師から仕事の実体験を聞いたりする場でもあります」
 講師は、協力企業の社員がボランティアで務める。1回につき4、5人の少人数で、パソコンスキルをマンツーマンで教える。性的虐待を受けた経験から男性に近づくことに抵抗がある子どものために、講師も参加者も女性のみという回もある。
 講習の1日目は、ITリテラシーと基本スキルを学ぶ。FREE Wi-Fiやネットショッピングを利用するときの注意、メールの書き方、ワードの使い方など。2日目は、エクセルとパワーポイントに挑戦し、最後に、自力で作った資料で「私の夢」をプレゼンテーションをする。「早く結婚したい」「動物を飼ってみたい」など、将来の夢を語る子どもたち。

生きるモチベーションになる
 エリさんもこの講習会を受講し、エクセルとワードが使えるようになった。いま働いているメーカーでは必須のスキルだ。「ここで学べておいてよかった」と話す。
 2017年3月、講習会に参加した子どもは累計200人を超えた。児童養護施設からのニーズは高まっている。そのため、企業から寄贈してもらう不要パソコンの数が足りていない状況だ。
「親の事情によって施設で暮らしているだけで、子どもたちは何も悪くありません。トラブルを避けようと情報から遠ざけることは、生活の格差を広げることになりかねません」
「ネットを通じてさまざまな世界に触れ、視野を広げることは、子どもたちの生きるモチベーションにつながり、将来を自ら選び取る動機にもなります。すべての子どもが、正しい知識を持って、情報にアクセスできるようになってほしいと思います」
  立神さんはそう言い、支援を呼びかけている。
「e2プロジェクト」への支援に関する情報はこちら。
 http://lightson-children.com/projects/e2/#support

「地元の風紀が乱れる」? 児童養護施設設立の困難

J-WAVEニュース 2017年10月8日

 J-WAVEで放送中の番組「JAM THE WORLD」。10月から時間帯を変更し、新ナビゲーターのグローバーが、曜日別に登場するジャーナリストと共に、日本、そして世界で起きているニュースの本質に迫ります。
 10月4日(水)のオンエアでは、水曜日のニュース・スーパーバイザーのフォトジャーナリスト・安田菜津紀が登場。新コーナー「UP CLOSE」でNPO「Living in Peace」の副理事長をお迎えし、地域の反対で新設・移設が断念に追い込まれる問題が増えている児童養護施設について掘り下げました。
 “家庭に近い環境で育てる”という考え方が定着し、少ない人数で暮らすカタチに移行しつつある児童養護施設。ところが、地元住民の反対で、そもそも児童養護施設を作ることができないというケースが各地で増えているそう。
 児童養護施設というのは、社会的養護施設のひとつで、親の代わりに別の大人が養育者となって子どもを育てる仕組みです。現在は全国に約600箇所あり、3歳から18歳までの子どもが3万人ほど暮らしています。子どもたちは4、5年を施設で生活した後、親の元へ戻ったり、自立をしていきます。
 では、子どもたちは主にどういった事情から施設で暮らすことになるのでしょうか? ひとつは虐待。深刻な虐待がある場合はやはり、親から引き離さないと子どもが危険です。他には“親の養育困難”と呼ばれるもので、金銭的に困窮しているとか、親の精神的な問題があったりすると、子どもが施設で生活することが多くなるのだそう。
 施設は子どもを守るための場所なので、外からは中のことがわからなくなっているそう。しかし、実際に住んでいる子どもたちは、学校に通い、習い事や塾にも行っていますし、勉強が好きな子どもは大学に進学するなど、一般的な子どもの暮らしをしています。
 最近では、地域の反対で建設が断念されるケースが増えているということですが、反対の声にはどんなものがあるのでしょうか?
 「一般的に施設が新設される、移転されるという時に出てくるのは、やっぱり『どんな子どもたちが来るのかわからない』ということからくる、感情的な不安。マイナスなイメージの方が強く出てしまいますので、『問題児が来るんじゃないか』とか、そのことによって『地元の風紀が乱れるんじゃないか』っていうのがやっぱり率先します」(副理事長、以下同)
 地域に根ざした施設と考えると、地域の人に理解されないと、作ることは困難になってしまいます。施設の新設・移転の反対問題は最近に始まったことではなく、常にある問題だそう。ちなみに反対の声の主になっている、“施設ができることによって地域の風紀が乱れる”ということは実際に起きているのでしょうか?
 「ここで暮らしている子どもたちというのは、本当に普通の子どもなんですよね。我々は日常的に会ってますけど、『あ、普通のかわいらしい子どもだな』というのが我々の意見。ということは、外の地域の人たちが関わってくるときにも、おそらく、そういうことを感じてもらえるだろうと」
 虐待の傷がまだ癒えていない子どもの中には、それが発達障害の傾向性に繋がっているという場合も一部あるそうですが、「それが周りの人に悪影響を及ぼすかというと、決してそんなことはない」と副理事長。現代では、発達障害的な問題を持つ人は施設の外にも、たくさんいることが常識的になっています。「そういう意味でも、悪影響を及ぼすっていうのは、一部いるかもしれませんけど、一部というのは、なにも施設に限ったことじゃなくて、一般的な話ですよね。だからそこもきちんと伝えていかなきゃいけないんだな、というのは感じます」と語ってくれました。

わたしは「できそこない」? 虐待された女の子が自信をつかむまで

サイゾー 帆南ふうこ 2017年10月3日

 虐待を受けた「わたしたち」に残ったものとは? よじれてしまった家族への想いを胸に、果たして、そこに再生の道はあるのだろうか。元・被虐待児=サバイバーである筆者が、自身の体験やサバイバーたちへの取材を元に「児童虐待のリアル」を内側からレポートする。

 大阪で編集者をしているメグさん(仮名・49歳)は、幼いころに両親から虐待を受けていたという。彼女とわたしとの出会いは5年前、池袋のカラオケボックスで開いたサバイバーのオフ会がきっかけだ。華奢な腕で重そうなスーツケースを引きずり、「夜行バスで来ましたわ」と笑うメグさんは、バイタリティの塊そのものだった。
 18歳のとき、メグさんは家族から逃げるために家を出た。その後、彼女は平和な日常を手に入れることができたのだろうか。親との関係は現在どうなのだろう。今回はそんなメグさんに、親の暴力をどう受け止め、「できてしまった傷」とどう折り合いをつけてきたのかについて聞いてみた。
お母さんが、こんなヒドイことをするはずがない

メグさんは誰からどんな虐待を受けていたんですか?
 母親からは身体的な暴力、父親からは「お前はダメだ」と言われ続けるような精神的なものが中心でした。特に母親がひどくて。たぶん人格的に問題があったんじゃないかな。

お母さんは、どんな人だったんですか?
 脈絡なくキレる人、何が原因で怒り出すのかわからない人でしたね。たとえば、小学校の自由研究で弥生時代の女性の服装について調べたのですが、模造紙に描いた服装のイラストを母が見たとたん「小さい!」って叫び出してビリビリに破いちゃったり。殴る蹴るなどは、物心ついた4歳ごろから日常的に受けていました。

親の「怒りのツボ」がわからないと、子どもとしては回避策がとれないから常に緊張状態ですよね。暴力についてはウチの場合、わたしの成長とともに手段や武器(道具)がバージョンアップしていきました。メグさんはどうでしたか?
 あー、ありましたねぇ。素手からモノを使う暴力になりました。覚えているのは小学5、6年生のとき。理由は些細なことだったと思いますが、母がわたしの頭をセルロイドの分厚い下敷きで思い切り殴って、それが一撃でバラバラに砕けたんです。
 自分の大事なものが壊されたショックと、「お母さんがこんなヒドイことするはずない」というショックで、しばらく起きたことが信じられませんでした。それまでは、殴るといってもグーとかパーだったので。そこからますます母のことがわからなくなって、警戒するようになっていったんです。

その気持ち、よくわかります……。ちなみに、暴力を振るわれていたのはメグさんだけですか? 誰か味方は?
 ウチは団地住まいで、他の家族が家にいるときも殴られていました。決して広い家ではないので父も知っているはずですが、止めてはくれませんでしたね。父は高校教師で後に大学教授、母も看護学校で英会話を教えているような人だったので、娘にも優秀であることを求める……というか、わたしにとても厳しかったんです。母が、わたしとの会話の中でしょっちゅう「恩に着せるわけじゃないけど」と前置きしていたのもあって、「あぁ、自分は仕方なく養われているのかな」と解釈していました。
 逆に5歳下の弟は、すごく溺愛されていましたね。わたしより成績が悪かったのに、叱られているのも見たことがありません。弟は、こちらが殴られているのを黙って見ていたり、母と一緒になってバカにするような態度をとったりしていました。
ホイットニー・ヒューストンが力をくれた

「長女は虐待されるけど弟は無傷」というパターンは、女性サバイバーからよく聞く「虐待あるある」です。家では四面楚歌だったメグさんの心の支えになってくれたのは、やはり友だちですか?
 それは違ったかなぁ。「自分はできそこない」という意識があったし、小学3年から中学3年ごろまでいじめにあっていたので、人が怖くて常に「防衛モード」に入っていました。だから、思春期にも腹をわって話せる友だちはいませんでしたよ。休み時間も机に座って本ばかり読んでいる子だったし。
 高校生のころは、よく無気力状態になっていたんです。でも、洋楽を聴くと元気が出ました。ホイットニー・ヒューストンの『Greatest Love Of All』は大好きでしたねぇ。歌詞の中で <一番大切なのは自分を愛すること> っていうくだりが出てくるんですが、あれを聴くと「自分の中にこんなエネルギーがあったのか」とびっくりするぐらい力が湧いてきました。

高校生といえば、わたしの場合は「自分がされていたことは虐待だ」と気づいたころです。親を憎む気持ちと、そんな自分を醜いと思う自己嫌悪の間で、ずっと葛藤していました。メグさんは両親に対してどんな感情を持っていましたか?
 わたしの場合は、両親を憎んだり見下したりしていて、そこに罪悪感や自己嫌悪はありませんでした。心理学の本をたくさん読んでいたので、「虐待」からの流れとして、子どもたちが当然そういった感情を持つようになることを知っていたんですよね。
アラフォーで男性経験なしというプレッシャー

「家から脱出したい」という気持ちは起きませんでしたか?
 もちろん、ありました。わたしが15歳を過ぎたあたりから、母親が更年期のウツ状態になって……。暴力は止んだけど、代わりに干渉がすごかったんです。趣味で読んでいる小説のページ数をいちいち確認されたり、子ども部屋のふすまを閉めることも許されなかったりで、常に行動を監視されていました。
 ストレスがたまりにたまった高校3年のころ、「自宅から遠い大学に行けば、一人暮らしができる」とひらめいたんです。親が満足する偏差値の学校を探して受験しました。でも、実家から離れても、やっぱり親の干渉は止まらなかったんですよね。「こんなんなら意味ないや」と気力を失って中退してしまいました。そこからは実家には戻らず、派遣事務とか食品工場とかいろいろ働いて食いつなぎました。

挫折の理由ひとつとっても、虐待が絡んでいると知り合いにはなかなか説明しづらいですよね。ほかに、生きづらさを感じていたことはありますか?
 20代前半は、他人から批判されるのが怖くて、友人の前でも手が震えていました。飲み会では「アル中」疑惑を持たれたこともありましたよ(苦笑)。あと、男性ともちゃんと付き合ったことがなくて。正直、あっちの経験(肉体関係)もなかったんです。好きになるのは、なぜか父にそっくりな「人にダメ出しをするような性格のキツい人」で、その人の前では自分が被害者みたいな振る舞いをしてしまうんです。

他人との関係性として、「加害者⇔被害者の構図」は自分にとって慣れ親しんだものだから、自然とそうなっちゃう。
 多分そういうことだと思います。でもそんな卑屈な態度じゃ、好きな人には振り向いてもらえないんです。このまま40歳になっても「未経験」のままなら、女としても“できそこない”になってしまうのではないかって。そう思うこと自体が、ものすごい恐怖でした。
助けてくれたのは、ネットの仲間と編集者という仕事

サバイバーは、恋愛や結婚を含めた対人関係で苦労します。だから匿名のブログやネット上のコミュニティでうっぷんを晴らしたり、虐待の思い出を綴ったりする人も多いわけですが……。その過程で当人なりの気づきを得て、自信を取り戻したり、親との関係を再構築したりするケースも多いですよね。
 うんうん、それはあると思いますよ。今はもう閉鎖されちゃってますが、わたしも30代半ばごろから「家族という名の強制収容所」というサイトにとてもお世話になっていました。そこのBBS(掲示板)でサバイバー仲間ができて、徐々にリアル(対面)でも会うようになりました。ただ、合わせたら10人ぐらいいましたけど、交友関係が続く人は少なかったですね。

それでもサバイバー仲間との交流を通して、自分の抱えている生きづらさが、「すべて自分のせい」ではなく過去の環境によるものだと気づいたんですね?
 はい、そんな感じです。インナーチャイルドセラピー(記憶の中で、子ども時代の傷ついた自分と対話する精神治療)とか、自己啓発のセミナーなんかも行くようになって、ある程度は虐待を受けた過去と親のことを客観的に見られるようになりました。
 セミナーで近づいてきた男性と「体験」もすませたんです。30代の終わりに、ギリギリ滑り込みで。アハハ。まぁー、悪くはなかったですよね。妻子のいる人ですぐ別れてしまいましたが、向こうはセックスレスだと言っていましたし、こっちは結婚願望も子育て願望もない。お互い「利害の一致」ってことで、それでいいかと。

その辺の解釈は当人たちにしかわからないことだと思いますが……、わたしも不倫経験者なので思い当たる節はあります。ともかく、メグさんは「自分はできそこないかも」という不安要素を1つずつクリアしていった感じなんですね。
 結果的にそうなりましたね。

もうすぐ50歳。今の生活は楽しいですか?
 はい。編集者の仕事に就けたことも大きいかもしれません。最近では脳科学や整体の書籍を手がけているのですが、毎回新しい世界にふれられるのが刺激的なんです。子どものころから本が友だちだったし、言葉にこだわるのも向いているみたいです。
 20?30代はずっと作曲家とか音楽のプロを目指していましたが、よく考えたら「心からやりたくて」というより「親への反抗」だったんですよね。それまではずっと逃げてきたけど、はじめて素直な喜びから選んだ仕事で、しかも小さな成功体験を積み重ねることができた。今は「自分の気持ちに素直になれる」状態に自信が持てるようになって、「わたしは100点!」って言えるようになりました。

いいなぁ~(思わず)。大げさかもしれませんが、「自信」を持つということは、自己認識の根っこに「虐げられる」イメージが張り付いてしまったサバイバーの悲願かもしれません。40年以上の歳月は長かったと思いますが、本当におめでとうございます。
 あ、ありがとうございます。どうしよう、話していたらウルっときてしまった……。

いい話が聞けて、わたしもうれしいです。で、親との関係は、今どうですか?
 許す――というのとは違いますが、なんせ向こうが老いて弱っちゃいましたからねぇ。憎いという気持ちは薄れました。父は一昨年前、誤嚥性肺炎が元で亡くなりました。80歳でした。最後の3カ月は病院にお見舞いに行ってたんですが、父はもうすっかり素直になっちゃって。わたしとしては、小さい子どもに「もう仕方ないなぁ」と思うような気持ちで、“生温かく”見守っていました。
 母の方は……「きっとこの人は人格障害だから仕方ない」と思いつつも、まだ引っかかりを感じるときはあるかな。そういう日は、ネットの掲示板とかで怒りをぶつけてちゃんと発散してますよ(笑)。

 今年の7月、同じ虐待の経験をもつ知人と「自尊心に問題を抱えた女性たちのための」自助グループを立ち上げたというメグさん。しばらくは会員制のチャットなどを通じて、苦しんでいる人たちと何ができるかを探っていくそうだ。
 一度ついた傷は、おそらく消えない。かさぶたの痕跡は一生残るだろう。だが、「血が止まらない」と苦しむ後輩へ手を差しのべ、未来を考えることで、互いの傷を薄めていくことはできるのかもしれない。メグさんは、やっと自由な人生をつかみ取ったばかりだ。