学費、生活費…施設の子の進学阻む高い壁

神戸新聞NEXT 2018年2月26日

日差しで輝くプールの氷
 尼学(神戸市北区)の副園長、鈴木まやがある数字を指さした。「12・4%」
 全国の児童養護施設から大学に進んだ割合だ。8人に1人。平均の4分の1以下。鈴木がふと、智也の話を始めた。
 幼い頃、尼学に来た。家庭の困窮が原因だった。朗らかだけど、対人関係は少し苦手。不登校も経験した。ただ、高校入学時には決めていた。「大学に行く」
 友人も作らず机に向かった。知識を得る楽しさ、分かる喜び。教えてくれた人への感謝は憧れに、そして夢に変わった。高校教師だ。
 3年生。学力は合格水準に届いた。バイトにも励んだ。大学の授業料免除、給付型奨学金の支給も決まりかけた。あと一歩、だった。
 「奨学金の保証人にはなれない」。両親が言った。「そういう家だ。分かってほしい」。にべもなかった。
 両親は職を転々としていた。光熱費は滞納。借金返済のための借金を繰り返す。10年たっても状況は同じだった。「どうしても進学したいなら、自分で働き、金をためてからにしなさい」。やむなく就職を決めた。
 虐待や経済困窮。施設の子の多くは学習と縁のない家庭で育っており、おおむね学力が低い。進学した先輩が少なく、イメージと意欲が湧きにくい。障害を抱える子もいる。鈴木が言う。
 「でも1番は、やっぱりお金ですね」
 学費に家賃、生活費。高校卒業までに到底準備できない。貸与型の奨学金は結局、借金。支える制度もほぼない。何より、頼れる大人がいない。
 施設の18歳に進学の壁は高い。越えられても資金が続かない子が多い。
 そんな中、1人の若者と出会った。今まさに、道を拓こうとしていた。(敬称略、子どもは仮名)

子どもたちと寄り添い「人生を終わりたい」

神戸新聞NEXT 2018年2月24日

柔らかな日差しが注ぐ中庭
 2009年3月、大庭英樹は22年働いた児童養護施設を退職した。妻は「1年ぐらいゆっくりしたら」と言ってくれた。慣れない営業の仕事もしてみたが、娘たちから「似合わない」と言われた。
 10月、再び子どもと関わる仕事に。川西市の児童相談所の嘱託職員となった。それまでは子どもを受け入れる側だったが、児相は親と向き合う仕事だ。家庭で問題があっても、施設に入るのはまれなケース。多くは地域や行政が協力して見守っている。「施設では子どもしか見えてなかったけど、親の抱える背景も知ることができた」
 激務ながら充実した日々。児相で経験を積む中で、子どもたちの顔が浮かぶようになった。「これまで出会った子だけでなく、これから出会う子にしてあげられることがある」。そんな時、旧知の鈴木まやに尼学で働くことを誘われた。
 戻ったのには、もう一つ理由がある。「罪滅ぼし」。そう告白する。
 体育会ラグビー部出身。駆け出しのころは、子どもたちから震えるほど怖がられた。何かトラブルがあっても、大庭が行くと「ぴしっとなった」。
 だが、それは一時的なことだった。子どもには何の成長もない。「自分に酔っていた。とんでもない育て方だった」。気付くのに8年かかった。
 以来、子どもたちが安心して暮らせるよう、寄り添ってきた。ふとした瞬間に見せる小さな成長が、この上なくうれしい。
 「この仕事の終着点は施設を出て10年、20年後」という。巣立った子が仕事を頑張っている。幸せな家庭を築いている。何人も見てきた。
 「子どもたちとどっぷり生活して、人生を終わりたい」。今は心からそう思う。(敬称略)

荒れる養護施設「子ども最後まで見れず」職員に自責の念

神戸新聞NEXT 2018年2月23日

ただいま。みんなの靴が並ぶ
 夜。子どもたちが寝静まった後、児童養護施設「尼崎市尼崎学園」(神戸市北区)職員の大庭英樹が蒼空の寝顔を見つめていた。小学1年。あどけない顔で寝息を立てている。
 「ずーっと見てしまう。ついつい頭をなでたり、ほっぺたを触ったりしてしまうんです」
 53歳のベテラン。最近は涙もろい。「子どもたちが、ほんまにかわいくて。学校から帰ってくる姿を見るだけで泣いてしまう」
 大庭は22年間、別の児童養護施設で働いた経験がある。いったんは他の仕事に就いたが、2011年に尼学へ。再びこの世界に戻るとは思っていなかった。
 中高大とラグビーをしており、大きな声が特徴。教師を目指していたが、大学時代にボランティアをしたのがきっかけで児童養護施設の職員になった。
 働き始めた当時は大舎制が主流で、狭い部屋に6~8人が雑魚寝をしていた。業界団体が「児童収容施設」と名乗っていた時代。「子どもの人権」という概念自体が薄かった。その中で目標とする指導員に出会い、「何とかこの状況を変えたい」と働いた。
 現場を愛した。子どもに殴られ、体中に青あざができたこともある。「それでもやりがいを感じた」
 だが、最後の数年は苦しかった。大人数が一緒に暮らす施設では、一度子どもが荒れ始めると全体に波及する。
 殴られるのは当たり前だった。昼夜を問わずに対応に追われた。「今日、僕が死んで帰ったらごめんな」。妻にはそう言って家を出た。いつ刺されてもおかしくない状況だった。
 しばらくして、施設を後にした。
 「子どもたちを最後まで見られなかった」。自責の念は今も残る。(敬称略、子どもは仮名)