ドラマ「明日、ママがいない」が取り上げているテーマは、現実社会では「命」に関わるのです。特に、第8話では「こうのとり」と強調した台詞回しで感動を呼び起こしていますが、言葉の取り扱い方が安易すぎます。
 すでに、「こうのとりのゆりかご」を通った人生を送っている子どもたちがいると言う現実を、脚本家は想像できなかったのか。想像できていたら、軽はずみに「こうのとり」を強調できなかったはずです。
 もちろん、第8話での「こうのとり」は、童話に出てくる「こうのとり」を取り上げたと推測できますが、慈恵病院への当てつけ的な表現と邪推せざるを得ません。公共の電波を使って、こんなことが許されて良いのだろうか。
 ドラマによって、感動を得た視聴者は、感受性が強く、実に素晴らしい人々でしょう。そんな、人々に「実は、ドラマ制作の裏側では視聴率優先のどろどろした大人の事情があるのですよ。」と公表した方が放送局としての真摯な態度ではないだろうか。
 標題で「命に関わる影響」と表記したのは、以下の電話を受けたからです。

 2014年3月某日、相談の電話が入る。
 「子どもを、そちらに預けることは出来ますか。」
 「児童養護施設は、自治体から委託されてお子さんをお預かりしていますので、直接、お引き受けすることは出来ません。児童相談所にご相談ください。」
 「昨日、生まれたが、障害があるので、子育てする自信がない。長男がいるが、長男にとっても良い影響を与えるとは思えない。児童相談所に相談すれば、子どもをすぐ引き取って貰えるのか」
 「児童相談所では、相談を受けて、家庭の事情等を十分に考慮し解決策を提示してくれます。」
 「うちは、夫婦共にいて、経済的にも貧しくないので、多分、自分たちで育てるよう言われると思う。」
 「…」
 「自分たちで育てられない、育てたくない。そういうときのために、こうのとりのゆりかごが九州にあるのですか」
 「…」
 「こうのとりのゆりかごを利用しても良いか。利用したいと思っている。」
 「私から言えるのは、子どもは、親の愛情の元に育てられるのが理想であると言うことです。」
 「…」
 「とにかく、悩まれているのであれば、一刻も早く、児童相談所に相談されてください。」
 「ありがとう。考えます。」
 電話が切れる。
 *「こうのとりのゆりかご」と表記していますが、実際の電話では「赤ちゃんポスト」と表現されていました。また、障害名についても聞いていますが記載を控えました。

 このような相談が、各種相談機関や児童福祉施設に来ているかも知れません。今回の電話は、時間にして10分間程度であり、もっと込み入った話もありましたが、概略を紹介しています。
 重要なことは、「命」に関わる見解の相違を調整することの困難さです。各種相談機関、慈恵病院や児童福祉施設では、このような相談に遭遇したとき、「命」を大切に考えることを誠意を持って説明する努力を怠りません。
 それでも、見解の相違が平行線を保ったままで、未解決に終わることも多々あることでしょう。今回の電話も最悪の場合、保護者がお子さんを棄児するに至るかも知れません。もちろん、最善は、お子さんを育てていくことですが、「もともと育てる気はなかった」との想いで子育てされたら、場合によっては良くない結果を招くかも知れません。
 ドラマ「明日、ママがいない」は、放送が終了したら、それで終わりと言うことではありません。これから現実社会にジワジワと影響していくことになります。相談業務の現場や福祉の現場が、表現は悪いのですが「尻ぬぐい」していくことになるでしょう。
 地域に小規模グループケアを展開していこうとする時、「ドラマみたいな、児童養護施設だったら、何かトラブルを引き起こすかも知れない、うちの地域に来るのは絶対反対です。」と引越や建設に対して反対運動が起こるかも知れません。
 「児童養護施設の子どもは、親がいなくて、親がいても虐待されていた、可哀想な境遇なのね。だから、恵んであげなければ」と同情されるかも知れません。つまり、自分たちより不幸な存在と言う一種の選別意識を誘発するかも知れません。
 様々な影響が予測出来ます。もちろん、これらの事案は、ドラマが放映される前から起きていることですが、ドラマを通して、一部の人々の負の意識を呼び起こすきっかけになったかも知れない危惧があります。
 テレビドラマ制作に当たって、視聴者ひとり一人の人生観について責任を持つことは、不可能であり、その部分を訴追することはナンセンスです。
 しかし、慈恵病院や児童養護施設について、一部の視聴者が誤解曲解していることは、「明日、ママがいない」公式掲示板の書き込みで明らかです。これらの誤解曲解を真実の方向へ導いていくことは、日本テレビの責務ではないだろうか。

 下記ニュースの子どもたちが今後も児童福祉を利用しないとは、誰も断言できないのが現実です。

震災孤児、育ての親に目立つ疲れ…支援は手探り

読売新聞 2014年3月10日

 東日本大震災で両親が死亡したり、行方不明になったりした震災孤児の「育ての親」たちに、疲れが目立ち始めている。
 多くが、祖父母やおじ、おばなどの親族だが、高齢による体調不安や、慣れない子育てへの戸惑いなどを抱えている。専門家らは、心のケアも含めた「継続的な支援が必要だ」と指摘し、孤児の支援団体も実態調査に乗り出しているが、育てる側をどう支援していくか、手探りが続いている。
 岩手県釜石市で孫2人を育てる祖父の男性(92)宅では、食卓に蓋やラップをした肉野菜炒めや焼き魚などの皿が並ぶ。「夕飯はヘルパーさんが作ってくれている」。電子レンジで温め、孫に食べさせるのが日課だ。
 孫は中学3年の姉(14)と小学6年の弟(12)。2人の父親だった祖父の長男は2008年に病死。障害者施設で働いていた母親は、津波にのまれ、亡くなった。
 同居していた祖父が孫を育てることになったが、足腰が悪く、車の運転もできない。毎日ヘルパーに買い物や掃除を頼み、孫の学校とのやり取りは近くの親戚らが手伝う。それでも昨秋には体調を崩して1か月半入院した。周囲の助けで何とか切り抜けたが、「自分はともかく孫が心配。2人が学校を卒業するまで、あと10年は生きないと」と語る。
 育ての親の多くは、国などが子供の生活費や教育費などを支給する「里親制度」で月額で5万円程度の支援を受けている。しかし、事前に十分な研修を積む一般的な里親のケースとは異なり、突然子供を預かることになった人ばかりだ。
 岩手県の委託で、震災孤児を抱える12世帯を定期訪問している児童養護施設職員の金野祐樹さん(41)は、「昨春頃から里親の悩みが深くなってきた」と明かす。子育て経験がないまま子供を引き取り、「同級生の親との付き合いがつらい」と漏らすようになった女性や、実子2人を含む5人の子供を育てることへの不安を口にする男性らの例を挙げた。
 こうした現状を受け、東北大などが育ての親を対象とする実態調査を始めた。同大震災子ども支援室長の加藤道代教授は「育ての親の多くは、家族を失った悲しみを感じつつ、『身内が育てるのが当たり前』との使命感で子育てに力を注いでいる。中には弱音を吐けない人もいる」と語る。