明日、ママがいない 批評まとめ

 

ドラマ自体は、表現の自由であり、フィクションであることは明らかです。ドラマの中では「児童養護施設」と言う表現はなく「グループホーム」と言う架空の場所を設定しています。
 テレビ局の宣伝戦略が間違っているのです。「児童養護施設」と言うキーワードを巧に使うことによって、視聴者の興味を引き、有名子役を抜擢することにより反響を呼ぶ戦略。
 確かに、成功したようで14%と言う高視聴率をたたき出しています。
 しかし、ドラマの場面設定は、虐待とは、なんぞやのオンパレードです。1時間20分の中に、これほど、虐待的表現を盛り込んだドラマがかつてあったでしょうか。
 身体的虐待、心理的虐待、性的虐待、ネグレクト、全てが表現されています。短時間で、これほどの虐待表現を見せられた場合の、精神的な影響をテレビ局は、適切に想定しているのでしょうか。
 例えば、学校を舞台に虚飾された設定で展開するドラマがありますが、学校は、全国民が、その通常の状況を認識しており、ドラマが虚構の世界であることを容易に判別できます。
 しかし、児童養護施設の場合、殆どの国民は、通常の状況を認識して居らず、ドラマが虚構の舞台であることを判別しづらいのです。特に、福祉施策という情報を殆ど持ち合わせていない子どもたちは、虚構の世界と現実の世界を判別できず、誤解曲解に陥ってしまう可能性が大いにあります。
 経済的設定も曖昧すぎます。まず、このドラマの場面設定では、確実に国や自治体の認可を受けることはありません。職員配置、部屋割り等は最低基準を満たしておらず、建物も老朽化が激しく耐震強度が満たされているとは考えにくい状況です。つまり、措置費(補助金)を受けられない状況で、子どもたちの生活費や学費、職員の人件費、建物の維持管理費を、どこから調達しているのだろうか。いくら、フィクションのドラマであろうと、ある程度、根拠のある場面設定にしなければ、矛盾だらけのドラマ展開になっていくのではないかと危惧します。
 子役たちの演技力は素晴らしく、特に芦田愛菜の演技は、最初は、大げさな演技表現に感じましたが、ドラマが進んでいく内に、その表現に一貫性を感じ、後半での川の堤防での鬼気迫る演技は、涙を誘いました。施設長役の三上博史は、個性派俳優で、その演技力には定評があり、ドラマ序盤の魔王的態度がドラマ後半に意味を成していく表現が出来る俳優さんでしょう。従いまして、フィクションドラマとしては、十分に社会に影響を与える構成になっていくことは容易に想像できます。
 それほどの影響力を与えそうなドラマだからこそ、テレビ局は、その宣伝戦略に慎重になるべきであったと警鐘を鳴らしているのです。
 子どもたちは、大人たちに見守られながら成長していきます。それが、人間社会でしょう。確かに多くの動物たちは、僅かの期間しか親のサポートはなく、自立していきます。このドラマでは、幼い子どもたちに、精神的自立を図り、強く生きて行きなさいとのメッセージ性が見受けられます。自分で生きていくためには、支援者である里親さんを利用しなさいと言わんばかりのシーンもあります。まるで、国や自治体が推進している社会的養護と言う考え方に反旗を翻しているかのような印象を受けてしまいます。
 コンセプトとして「子どもたちの視点から“愛情とは何か”ということを描く」と日本テレビはコメントしているようです。第1話で不幸のどん底を描き、そこから、愛情とは何かに気づいていくドラマ展開は、確かに演出としては常道で、視聴率を稼ぐ手法であり、経営手腕としては評価できます。しかし、子どもたちのニックネームの付け方など、影響力のあるドラマであるからこそ、最大限に配慮すべきであったと考えます。
 ドラマの内容自体は、賛否両論があり、私としては、否定でもなく肯定でもない立場ですが、テレビ局の宣伝戦略は改めるべきであると思っています。キーワード「児童養護施設」を撤回し、ニックネームにしても、「やっぱり、名前で呼び合おうよ」とに切り替える決断が求められます。確かに、「親からもらった名前は捨てる」と言う、登場人物の設定が崩れてしまいますが、戦略的撤退も必要ではないかと思います。