「どうして人を殺してはいけないのか?」元少年Aの結論とは? ―『絶歌』から加害者心理を読む

TOCANA 2015年6月17日

~【ジャーナリスト渋井哲也のひねくれ社会学】都市伝説よりも手ごわいのは、事実だと思われているニセモノの通説ではないだろうか? このシリーズでは実体験・取材に基づき、怪しげな情報に関する個人的な見解を述べる~
zekka.jpg『絶歌』(太田出版)

神戸連続児童殺傷事件の加害少年、元少年Aが書いた『絶歌』(太田出版)が、「サブカル臭が強すぎる」「自己陶酔している」「遺族感情を無視している」など、さまざまな批判を浴びている。出版社に対しても、「売れれば何でもいいのか」と疑問の声が上がっている……。
しかし、本当に批判ばかりなのだろうか?
かくいう私も先日『絶歌』に関して疑問を投げかける記事を本サイトに寄稿したが、加害者更生(加害者臨床)の取材をしている私が、あえて本書を元に、「加害者心理を読む方法」のひとつを示したいと思う。
本書に対して嫌悪感を抱く人や、加害者心理について知りたくない人は、これから書く文章を読む場合、注意してほしい。

元少年Aの思考の変化 動物虐待から、人を殺すまで
まずは、元少年Aの思考の変化についてみてみたいと思う。

・死への関心
注目すべきは祖母の存在だろう。彼にとって安心できる人間は祖母だった。何をしても許してくれる人物だった。しかし、小学校4年生のころ、祖母が肺炎をこじらせて亡くなる。それによって、
「『悲しみ』とは『失う』ことなんだ。(P43)」
……ということを自覚する。

・動物虐待
と同時に、死に対する関心が深まり、ナメクジやカエルを解剖するようになる。このあたりまでは、異様というよりは“あり得る行動”だ。私もカエルを解剖した経験がある。「死」への意識が強かろうが弱かろうが、昆虫を殺すという残酷行為を少年少女時代に経験する可能性は誰にでもある。
だが、そこで「生や死をコントロールしている」と元少年Aは感じるようになるのだ。さらに、彼はそれが「性衝動」と結びつく。このあたりの描写は、加害者心理が細かく書かれており、加害者の更生をどのようにプログラムしていくべきかを考える上でとてもわかりやすい内容だ。医学的な治療はもちろん、「薬物療法」も必要になるのではないかと思わせる。
元少年Aは中学1年生の時、児童相談所へ相談に行くように勧められるが、母親は病院に連れていく。家裁決定によると「医師は母親に対し、認知能力に歪みがあり、コミュニケーションがうまくいかないので、過度の干渉を止め、少年の自立性を尊重し、叱るよりも褒めた方がいいと指導した」とある。
もしもこの時、児童相談所(児相)に行っていたらどうだったのか? 2014年7月に起きた「佐世保女子高生同級生殺害事件」でも親は、児相に相談していたが、事件は防げなかったことを考えると、「結末は誰にもわからない」としか言えないだろう。本書では触れていないが、小学6年生のときに、先生に「何をするのかわからん。このままでは人を殺してしまいそうや」と言い、泣きじゃくったことがあると報道されたこともあった。もしも、それを児相が汲み取っていれば、何かが変わったのではないかと思ったりする。

・殺人行為へ
その後、元少年Aの死への関心が「動物」から「人」に向いたのかは、詳細に書かれているわけではない。あえて言えば、殺害された男児が、祖母のように、何をしても許してくれる存在だったからということか? 引用文を見てみよう。
「祖母の死をきちんとした形で受け止めることができず、歪んだ快楽に溺れ悲哀の仕事を放棄した穢らわしい僕を、淳君はいつも笑顔で無条件に受け入れてくれた」(P123)
しかし一方で、それが耐えられないという複雑な心境になる。
「僕は淳君が怖かった。淳君が美しければ美しいほど、純潔であればあるほど、それとは正反対な自分自身の醜さ汚らわしさを、合わせ鏡のように見せつけられている気がした」(P125)
それがなぜ殺害に至るのかは書かれていない。「無茶苦茶にしたい」「殺したい」という感情が湧き出るのは、思春期のみならず、人は誰しも、瞬間的に、また継続的に考えることはある。しかし、行動にはなかなか移せないし、移さない。そういうものだ。
「殺害」という壁を越えるのは、「日常性」とは違ったものが必要だが、それがなんだったのかは自己分析では限界があるのだろうか。本書にはないが、犯行当時、日記にはこう書かれていた。
「バモイドオキ神様。ぼくは今現在14歳です。もうそろそろ聖名をいただくための聖なる儀式、『アングリ』を行う決意をせねばなりません」
これは当時の彼が犯行を決意した時の心境を表したものなのだろう。ただ、殺害計画を立てたとしても、なぜ実行できたのかは別の問題だ。
一方、家裁決定では「加えた傷害の部位が身体の重要な部分であることを考えると、攻撃回数が少ないため、確定的な殺意までは認めることができないが、仮に死の結果が発生しても止むを得ないとの認識であったと認めざるを得ない」とある。

・現在の思考/脱・酒鬼薔薇聖斗?
この結論は、日記から推測される強い決意とは大きな差があるのではないだろうか。彼は一体、どんな気持ちで人を殺害したのか? このあたりの詳細な記述がないのだ。『絶歌』において、動物虐待については詳細に書けても、人の殺害シーンを細かく書けなかったことをどう読むべきなのか? 「記憶がない」「徐々に忘却した」「罪悪感により書けなかった」「遺族への配慮」なのか……。遺族への配慮だとすれば、思考としては、徐々に「脱・酒鬼薔薇聖斗」化しているとも言えなくもない。

殺人を犯した直後の心理
さて、殺害現場はタンク山だが、そこから入角ノ池の大きな樹の根元まで、頭部を移動させている。どのようなことを考えていたのかが書かれている。家裁決定全文では「もっと人目の付かないところへ首を運んで、ゆっくり鑑賞しようと考えた」とある。そう供述もしたと本書でも書いているが、その内容を否定している。
「まだ事件は発覚していないものの、公開捜査は始まっており、街中、至るところで警官や機動隊、PTAや学校関係者が『行方不明』となった淳君を捜しまわっていた。現に、遺体の一部を持ってタンク山から入角ノ池へ向かう途中、池を囲む雑木林の中で僕は三人組の機動隊と出くわし、言葉を交わした。『人目のつかない場所で』などと冷静に考えて行動したなんてありえない」(P33)

・殺害直後から後悔していた?
と記している。このようにその時の思考を思い出している部分があったりする。ではなぜか? それは「蘇りの儀式」だったのではないか、とやや第三者目線で語っている。元少年Aは、入角ノ池の大きな樹の根元を「生命の起源を象徴する」(同)場所として認識していた。そこに隠すことで、
「“生き返らせたかった”のではないか」(同)
と記しているのだ。だとすると、この時点で殺人への後悔が生まれていたとも考えられる。その行為について「世間や被害者の感情を逆撫でする」と感じている。そして、ドストエフスキーの『罪と罰』を引用しながら、こう書く。
「人を殺すという極限行為に及んだ人間が、冷静に正気を保っていられるほうがおかしい。僕とて例外ではない。一連の犯行に及んでいるあいだ、僕は、常に怯え、焦り、混乱していた。心の中ではパニックを起こし泣き叫んでいた」(P34)
これは、事件の加害者「酒鬼薔薇聖斗」は、当時、彼自身だけの守護神「バモイドオキ神」が支配する世界にとりつかれた、死を支配している冷酷な少年、というイメージだったが、実は、普通の少年だったとの告白だ。
そのことが当時の心境なのか、執筆段階での心境かを把握することは難しい。だが、もしこの思考をもっと早く世の中に理解されていたら、のちに「酒鬼薔薇聖斗」を神格化した少年少女たちが生まれることはなかったのかもしれない。

少年院/犯罪者が更生していく過程
事件を起こした元少年Aは、関東医療少年院に送致された。仮退院したとき、両親はAを引き取ろうとしていたが、Aはそれを断った。家族と食卓を囲んでいる時に、もし事件に関するニュースが流れたらと思うと、耐えられなかったと書いている。そのため、更生施設と里親とを渡り歩いた。その過程でこんな自省をしている。
「僕はあの時、ちゃんと心と身体の真っ芯から『痛み』を感じきれたのだろうか。本当にとことんまで、自分の犯した罪や、自分自身と直面できたのだろうか。『成長』できたのだろうか。無意識のうちに、人間としての何か大事な機能を停止させ、ぎりぎりのところで『痛み』を回避してしまったということはないだろうか」(P205)
この気持ちが、もし真にリアルタイムな感情だったとしたら、確かに、Aは罪と向き合っているように見える。自分自身と向き合うのは普通の人間でもとても難しく、多くの人が「逃げたい」と思ってしまう。向き合ってまで何かをしなければならないのは「よほどのこと」だ。ただAはその「よほどのこと」をしたため、向き合うことが必要だったのだ。
あるドキュメンタリー番組を見て、こうも思っていたようだ。
「僕が『謝罪したい』と思うこと自体、傲慢なのかもしれない。どうすればいいのだろう。これほどの苦痛を、これほどの憎しみを、僕はどうやって受け止めればいいのだろう。僕は思考停止状態に陥り、途方に暮れてしまった」(P211)
ここも加害者の更生を考える意味では重要な部分だ。被害者や被害者家族は本当の意味では許さない。そう思っていた方がいい。また、自分自身の行動を「被害者や被害者家族の目線」で常にチェックして生きていかなければなないものだ。そういう視点を与えられたのなら、更生プログラムは順調だったのだろう。
そして、謝罪文には、彼の思考が十分に現れていた。たとえば、
「自分は生きている。その事実にただ感謝する時、自分がかつて、淳君や彩花さんから『生きる』ことを奪ってしまったという事実に、打ちのめされます。自分自身が『生きたい』と願うようになって初めて、僕は人が『生きる』ことの素晴らしさ、命の重みを、皮膚感覚で理解しました」(P292)
やや優等生的な文章ではあるが、思考としてみると、相当な変化を見ることができる。事件当時、「どうして人を殺してはいけないのか?」という問いが世の中に渦巻いていた。その「答え」を彼はこう出した。
「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるのです」(P282)
にもかかわらず、本書が非難を浴びる最大の要因も書かれている。

履き違えた「更生」か?
「自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの『生きる道』でした」(P294)
確かに、書くことは自己救済になるのかもしれない。それは本書を書く最大の動機だろう。しかし、なぜ自己解決してしまったのか? 更生というのは、自分で道を切り開くと当時に、他者を適切に頼ることでもある。今、彼に必要なのは「信頼できる相手を見つけ、頼ること」ではないのだろうか?
殺害された小6男児の父親は元少年Aと直接には会っていない。産経新聞のインタビュー(14年11月11日)では、「謝罪して許されるかどうかは問題ではない。誠実に命をかけて謝り続ける行為こそが償いでしょう。それならば、遺族に届く『真摯な言葉』がないことはないだろう」と答えている。そんな中、本書の出版を報道で知った父親は怒りをあらわにする。元少年Aの出版という行動は、自己救済だったが、同時に遺族の怒りをかった。その意味では、まだ自己の快楽に溺れているのかもしれない。
(渋井哲也/ジャーナリスト)

「元少年A」手記 「Aは非礼では済まない乱暴なことをした」

dot.ドット 2015年6月17日

長い沈黙が、突如として破られた。
1997年、神戸市で連続児童殺傷事件を起こした
加害男性(32)が「元少年A」の名義で6月10日、手記『絶歌』(太田出版)を出版したのだ。
手記ではAが殺人願望に取りつかれて14歳で事件を起こすまでの経緯や心境が記されている。また、医療少年院を経て2004年に社会復帰して以後、時にマンガ喫茶や簡易宿泊所を転々としながら日雇いバイトや溶接工の仕事を行っていたことも明かされた。
出版前に、被害者家族への相談はなかったという。Aに殺害された土師(はせ)淳君(当時11)の父親は「メディアに出すようなことはしてほしくないと伝えていましたが、私たちの思いは完全に無視されてしまいました」とコメントし、出版の中止と本の回収を求めた。
太田出版の岡聡社長は、経緯をこう説明する。
「私の所に人を介してAの原稿が持ち込まれたのは3月頭。以降、本人とやり取りしています。文学的なセンスがあると思い、出版を決めた。独特の文体なので、加筆などはせず、本人が書いたもの。反発も予想したが、加害者本人の声は読む価値があると判断した。初版は10万部で、印税は本人に渡すことになっています」
だが、太田出版の関係者はこう言う。
「他の有力出版社に持ち込まれた原稿が“ボツ”になって、社長同士が親しいウチに回ってきたと聞いた」
Aの関係者も、出版は寝耳に水だったという。
A一家は事件直後、被害者遺族からの損害賠償請求を起こされ、約2億円の負債を背負っている。
「Aの両親は退職金や手記本『「少年A」この子を生んで……』の印税などで、これまで約8700万円を返済。Aの仮退院後も返済を続け、直近まで毎月7万円(Aが1万円、両親が6万円)を支払っていた。被害者の命日にもAが謝罪の手紙を送り続けてきた。だが、今回の件で被害者との信頼関係が崩れてしまった。遺族から、Aの手紙の内容がよくなったという談話も出してもらっていたのに、自らぶち壊してしまった」
Aが入院していた当時の関東医療少年院院長で精神科医の杉本研士氏も戸惑う。
「『困ったことをしてくれた』と思いました。犯罪被害者の家族のほとんどはPTSDなどに長く苦しむ。加害者への怒りと拒否の段階から少しずつ立ち上がっていかなければいけないのに、こんな突出した行動に出るとは。非礼では済まない乱暴なことです」
手記には、小説のような「文学的」な表現が目立つ。殺害した淳君の頭部を中学校の正門に置くため家を出る場面はこうだ。

葉型に拡がったカーテンの裂け目に両手をかけ、僕は外界の処女膜を破り、夜にダイブした
不可解な点もある。
97年の家裁審判の決定文では、「スパルタ教育」だった母親から厳しく叱責され続けるなど、母親の「過干渉」がAの人格形成に大きな影響を与えたことが、かなりの分量を割いて記述されている。
しかし手記では事件前の記述で母親との関係についてほとんど語られない一方、<母親を憎んだことなんてこれまで一度もなかった>と、これまでの「定説」に反論しているのだ。神戸家裁でAの審判を担当した井垣康弘元判事が語る。
「Aが20歳の時の少年院の収容継続審判の際、母親が『本当にあんたが(事件を)やったんやね?』とAに尋ねた。直接、息子の口から聞かない限り、信じないという母親の思いを知り、百八十度変わったのだと思う」
前出の杉本氏も言う。
「手記では少年時代の『心の骨格の歪み』がどう形成されたのか、まとめ方が曖昧。母親との関係に正面から向き合うべきだと思う。ただ、社会復帰後の生活の記述では切迫した心情も見える。事件直後には『早く吊るしてくれ』と叫んでいたが、今は<僕は今頃になって、『生きる』ことを愛してしまいました>と告白している。それを信じたい」
Aは12年冬に溶接の会社を辞めた後、短期バイトなどをしながら執筆を続けていたという。本当に更生の道を歩んでいるのか。
「崩れそうな自分を支えるために本で吐き出さざるをえなかったとすれば同情できるが、文章を発表することでまた人を傷つけてしまう可能性が大きい。自重と幸運を祈りたい」(杉本氏)