社会福祉法人 児童福祉 児童養護施設

第四章 知的障害者通所授産施設での記憶

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平常心を保て

 Yさんは、24歳の女性で普通高校を卒業しましたが、社会生活が営めず、障害判定で軽度の知的障害として認定されました。高校を卒業した学力を持っていますので、漢字等の識字力もあり、計算も方程式レベルまで解ける能力があります。日常生活に全く支障ない社会性も十分にあります。しかし、異常行動が顕著でした。高音域の声音で奇声を発したり、落ち着きなく、うろうろ動いたりの情動行動、何度も同じ内容を確認したり、夜中に裸で線路を歩いたり等々が見られます。
 精神科の診断は、心因反応でした。当時の医師の説明では、精神病とヒステリーの間の症状であり、Yさんの場合、妄想反応が顕著とのことでした。
 「お肉屋さんが私のことをじろじろ見ている。」「先生が私に裸になれと言った。」「私は○○さんが嫌い」「○○へ行かなければいけない。」「お肉は、おいしい、もっと食べたい」等々の発言が繰り返されます。内容的には、性的なこと食欲的なことで占められています。そこから、推測できることは、性的虐待です。私は、追跡調査を試みました。
 中学校、高校では、友達と呼べる級友はおらず、孤立状態で、男子生徒から関わられることは全くと言って良いほどなかった。ただ、女子生徒の中には、面倒見の良い生徒が関わってくれるため、完璧な孤立ではなかったとの事でした。次は、Yさんの就職先です。何のトラブルもなく仕事をしている時と、奇声を発したり、被害者的な言葉を発したりとの格差が激しく、Yさんの言動では、職場の男性全員が性犯罪者となっていて、これ以上、Yさんの雇用を継続することは不可能だったので解雇したとのことでした。
 その当時、母は、娘が、普通の子とは、少し違うなとの思いはありましたが、娘の言葉をすべて否定することはできず、産婦人科で膣の検査をしてもらいました。結果は、正真正銘のバージンでした。そこで、母は、覚悟を決めて、娘を精神科に連れて行ったとのことです。
 追跡調査の結果分かったのは、Yさんが精神的に不安定の時、発現する言動は、妄想によるものであり、異性(男子生徒)から相手にされなかったことが精神的ストレスとして蓄積され、それが心理的要因となり心因反応に至ったとの推測が現実味を帯びることです。また、Yさんのストレス解消が、食べると言う行為で発散されていたため、食への固執が慢性化していったと考えられます。「お肉屋さんが私のことじろじろ見てる」の発言の中には、食欲と性欲の二つの欲求が複合化された妄想と言えます。
 そのようなYさんに対して、私は、常にやさしく接しました。精神的に不安定な状態になった場合、必ず、集団から外し、二人だけになり、Yさんを座らせ、私は、その隣で座り落ち着くまでひたすら待つ、この繰り返しを行いました。Yさんの発言に対して否定も肯定も行わず、「そう」「ふ~ん」等で受け流します。ただし、「私は死んだ方が良い」「道の真ん中を歩きます」等、自殺願望的な発言になった時は、完全否定です。最初の頃は、落ち着くまでに4時間程度掛かりましたが、それが3時間になり2時間になり、半年も経つと、20分程度に短縮されました。
 確かに沈静化される時間は短縮しましたが、症状の根本的解決には至っていません。治療的部分については、医師による投薬治療が行われていました。

 子どもたちの中には、時には、情緒的に不安定な様相を示す状態になる子もいます。その状態に対して、時には、イライラしてしまう自分に気づくこともあるでしょう。しかし、ちょっと落ち着いて考えてみてください。一番辛いのは、情緒不安に陥っている、その子なのです。
 不安材料を追跡し、発見したら除去してあげるパターンもあり、その不安の壁を乗り越える解決方法を示してあげるパターンもあり、子どもの個性に応じて、最も適した方法を探していくことが重要です。情緒不安の子どもに対する対応として、最も大切なことは、あなた自身が落ち着いていることです。

希望の灯火

 Kさんは、高等養護学校を卒業した18歳の男性です。母の話によると、小学校5年生の時、とても慕っていた担任から他の担任に変わり、その先生から厳しく注意された経験があり、それから学校で一言も話さなくなったと言うことでした。Kさんは、家庭では、家族とは普通に話し、一歩外に出ると声を出すことができない症状です。
 場面緘黙症(選択性緘黙症)、それがKさんの診断名です。軽度の知的ハンディがあるものの、言語を理解することは十分にできますが対人恐怖が顕著で、グループ行動等は、大の苦手です。時には、話そうとする場面もありますが、どうしても極度の不安が先に立ち発声することができません。
 Kさんの担当になり、私が決めた支援目標は、「のんびり関わる」です。決して急がず、のんびりとKさんの心を解放していく、まずは、挨拶を交わすとき握手をする取り組みから始めました。握手をするとKさんの手は、緊張のために汗で濡れています。それでも毎日の繰り返しの中、徐々に汗の量が減少していきます。次は、軽くハグしていきます。最初は頑なに拒んでいたKさんも徐々に慣れてきます。そして、プロレスごっこへと発展させていきます。一日一回、プロレスごっこと称して、Kさんに体全体を使ったコミュニケーションを行いました。Kさんは、少しずつ私に対して親近感を持つようになります。初めてKさんの発声を聞いたのは、私は、時々、Kさんにお茶を注いであげることがあるのですが、その時、敢えて、とても熱い状態でKさんにコップを渡しました。「あつ」、思わずKさんは、発声してしまい「しまった」と言う表情を見せてくれました。そこで、私は、家庭訪問の時期が来たと確信し、家庭訪問を行いました。それは、実際に家庭では、どの程度、話しているのか確認するためです。家庭では、特に数多く話しているわけではありませんが、日常会話は、他の兄弟たちとほとんど変わらないくらいしていると言うことでした。実際に、私から見えない場所で、母に「おやつは何」と話している声が聞こえてきました。
 私は、それでも慌てず騒がず、Kさんとのんびり付き合っていきました。Kさんとのつきあいが始まり半年が過ぎ、その時がきました。「おはようございます」の発声です。Kさんは一歩を踏み出しました。とても、勇気が必要だったでしょう。恥ずかしかったでしょう。それでも、私は、さらりと受け流し、何事もなかったかのように「おはようございます」と返しました。その日から、挨拶はできるようになりましたが、その他の発声には、もう少し時間が掛かりました。
 利用者間のトラブルは日常茶飯事ですが、Kさんのイタズラで、怪我をしてしまった利用者の方がいて、私は、Kさんに事情を聞きました。Kさんは、しばらく無言を貫きましたが、Kさんなりの言い訳を話し始めました。その内容は、明らかに偽証です。私は、事態のすべてを把握していました。偽証と分かっていても、私は、Kさんの話をすべて受け入れました。それからは、Kさんの嘘の聞き役です。毎日毎日、次から次へと嘘の発言が続きますが、常に受け入れる、この繰り返しが半年くらい続いたでしょうか。次第に、Kさんの話の内容がつじつまの合うものへと変化していきました。
 2年後、担当変更になりKさんの口数は、減りましたが、それでも必要最低限の言葉は発声するKさんの姿がありました。

 子どもたちへの対応に対して、のんびり構える姿勢も時には必要です。子どもたちの言い分を信じ続けることも一つの方法論として成り立つことでしょう。子どもたちのどんな症状にも必ず解決策があります。それを推理していく作業、そこには、常に希望の灯火が見えることでしょう。

責め苦からの解放

 Kさんは、35歳男性、中学生までは、部活の陸上部で汗を流す少年でしたが、交通事故で左側頭部を強打し、右脳側が脳挫傷、脳のむくみも強く、出血も多量だったため、手術により脳挫傷と出血部分の摘出となりました。結果は、右脳の大部分が切除されました。
 右脳・左脳について、よく言われるのが「左脳は理屈、右脳は感覚」との機能の違いですが、これは、特に科学的根拠がないので、私は、Kさんをありのままに受け入れ支援をしました。ただ、右脳側が切除されたため左半身に麻痺と硬直があるのは、事実です。
 さて、Kさんは、交通事故から数年間は、言語、身体能力、感情表出、記憶等のすべてが、日常生活を営む上で、支障を来していました。そんな状態の中、父母の献身的な介助がKさんの能力を少しずつ蘇らせていきました。全面介助だった食事も特別な形をしたスプーンを考案し、毎日毎日訓練することによって、介助なしで食べられるようになり、言語についても、挨拶に始まり2語文から3語文へと徐々に語数を増やしていき5語文程度は、十分に理解できるようになりました。表情も無表情から喜怒哀楽を表現できるまでに回復しました。身体能力は、左半身に硬直があるため、特に左手首から先の部分は、硬直で曲がったままで、自由自在に身体を動かすことは、できませんが、父母が毎日リハビリ介助をしていることから、完全硬直は、免れていました。
 Kさんは、興奮すると大きな声で、少年期に行った家族旅行の話を繰り返します。大きな声ですので、勿論、周囲はびっくりしますし、ほとんど騒音のレベルですので迷惑な状況です。また、足で地団駄を踏みながら右手を振り回します。一目見ただけで興奮状態です。そのような場合は、集団から外し落ち着くまで待つしかありません。この興奮状態を引き起こす原因は、ほとんどの場合、Kさんの我が儘でした。例えば、外が暑かったり寒かったりすると、外に出たくないため、「散歩に行くよ」と声かけると始まる。他の利用者の方がKさんにほんの少しだけぶつかってしまうと始まる。嫌いな食べ物が食卓にあると始まる等々です。時には、興奮の余り、他の人を叩いてしまうこともありました。私は、許せる我が儘と許されない我が儘の境界線を父母と協議し、許される我が儘の時は、興奮した場合、落ち着くまで待つだけですが、許されない我が儘の時は、厳しく注意をすると言った感じでメリハリのある対応を行いました。Kさんは、靴を自分で履くことができませんでした。身体的自由に制限が生じているためですが、私は、丸椅子を下駄箱の前に置いて、Kさんが下駄箱から自分の靴を出して、その靴を履く、そして、外に出ると言う一連の行動訓練に取り組みました。勿論、Kさんにとって嫌なことですので、最初は、興奮状態を表現しますが、毎日毎日の繰り返しで、夕方になり父母が迎えに来ても、しばらくは、待って貰っていました。そして、3か月も経つと、時間はかかりますが靴を履けるようになりました。その後は、時間が少しずつ短縮されていきました。
 ある日、作業をしている時、Kさんはいつものように小用を訴えました。休憩時間までは10分間あります。「もう少しで休憩だから我慢してください。」と声をかけると、いつものように興奮状態です。すべてが、いつもの情景でした。日常的に繰り返される、本当にいつものことでした。
 休憩時間になりKさんは、トイレに入り小用を済まし「ああ、すっきりした」と安堵した表情でトイレから出てきました。「良かったね」と声をかけると、突然、Kさんは倒れ込んでしまいました。同時に全身けいれんが始まりました。外傷後てんかんの後遺症としてこのような発作状態も時々ありますので、私が慌てることはありませんでしたが、この時は、いつもと様子が違いました。硬直が始まったのです。脈拍も激しく、それが長く継続しています。発作開始から5分で決断し、父母への緊急連絡、「救急車を呼びます」と宣言し、119番通報です。4分後に救急車が到着、病院に搬送しました。
 Kさんは、残されていた左脳を精一杯使って生きていましたが、その分、疲労も激しく、時々起こる発作は、左脳へのダメージとなり蓄積されていました。Kさんは、「ああ、すっきりした」の言葉を最後に、植物状態になってしまいました。それから2年間、Kさんは生命を維持しましたが、お亡くなりになりました。葬儀に出席しましたが、その時も、そして、それまでも、父母は、私に一切、恨み言を言いませんでした。反対に感謝の言葉をいつも繰り返し言ってくれました。

 仕事をする上で予測不可能な想定外の出来事に出会うこともあります。私の場合、それが、人格と生命に関わる出来事でした。それでも、仕事を続けています。Kさんが「しっかりしいや」と私の肩を叩いて励ましているような感覚があるからです。
 あなたが弱音を吐いて、誰が幸せになることでしょう。常に、一生懸命、子どもたちと向き合っていたら、どんな状況になっても後悔の責め苦からの解放に導かれると思います。

見つめる目

 Hさんは20歳の男性。知的ハンディの個性を持っていて、自閉傾向でした。言語理解は、2語文、3語文程度は、理解できていますが、会話は、ほとんどが反響言語で、Hさんとある程度の期間、付き合わないと、どの程度理解しているのか判別しにくい状況でした。音に対しては、音量レベルが高くなると、過敏な反応を示し、パニック状態になります。時間や道順に関しては、Hさんなりのルールがあり、そのルールを外れるとパニック状態を引き起こします。そんなHさんの最大の欠点は、反社会的行為として認識される他害行為があることです。
 パニック状態になったり、自分の気に入らない状態になると、近くにいる人を押し飛ばしたり、思いっきり掴んだり、引っ掻いたり、噛みついたり、大きな声を出して騒ぐがあります。それも、予告なしの瞬時の行動なので、常に目を離せない状況でした。
 Hさんは、隣や目の前にいる人が、感情を持った人格であるとの認識が希薄で、例え、Hさんの行為によって相手が流血を伴う大けがをしていようとHさんの心には、波風さえ立たない状況なのです。人も一個の物質であり、コップが壊れる事象と人が怪我する事象に、大きな違いはないのです。そのことは、Hさんとのつきあいの中で徐々に分かってきたことでした。
 そんなHさんとのつきあいは、まず、音声認識から始めました。繰り返し繰り返し、Hさんの名前を呼ぶことで、常に身近にいる存在であることを認識して貰います。会話は、2語文程度で行い、「なぜ、何、いつ、どうしたの」等の疑問文は、一切使用しません。自閉傾向の方のほとんどは、明確でない表現に対しての処理能力が未熟で、場合によっては、パニックを引き起こす要因になります。作業療法については、作業工程の一部分だけではなく、全工程を行って貰いました。結果が明確に分かる作業の方がHさんは落ち着けるからです。時間については、極力、スケジュール通りの時間厳守を心がけます。このような様々な配慮を駆使して、Hさんのパニック要因を除去していくことによって、Hさんの他害行為は、減少していきます。
 私は、Hさんにとって、絶対的指示者でなければいけません。どんなに落ち着かない状態でも、パニックに陥っても、絶対的指示者の指示に従う。このパターンを構築しておかないと、大変なことになります。また、絶対的指示者には、Hさんは、強度のパニック状態に陥った場合でも他害行為は決して行いません。従って、Hさんがパニック状態の時は、私がHさんの前に立ちふさがることによって、周囲への被害を食い止めることができるのです。
 それでも、不意打ちの行動に間に合わないこともありました。最も危険だったことの一つの事例として、グループ活動の時、地下鉄駅ホームで一般客の方の背中を押してしまいました。その時は、電車を待つ時間に対しての苛つきで、それ程強度の苛つきではなかったため、押し方が弱く、一般客の方も少し驚いた程度で大事には至りませんでした。
 他の人から見たらHさんの行為は、反社会的行為ですが、Hさんにとっては、コミュニケーションの一つに過ぎません。しかし、危険を伴う行為であり、Hさんの横には、常に絶対的指示者がいることが必要なのです。
 Hさんは、通所施設では、時間的制約があり、家族も精神的な疲れがピークに達しているなどの状況を総合的に見極め、入所施設へと移っていきました。

 子どもたちの一人一人、それぞれ違った個性の持ち主です。その個性を十分に理解し、個性にあった支援方針を構築し、子どもたちと付き合っていけば、それは、子どもたちにとって、大人へのストレスが軽減されることに繋がり、子どもたちの成長、発達を阻害する要因の一つが解消していくことに外なりません。あなたにとって、必要な取り組みは、子どもたちを見つめ続けることです。

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