社会福祉法人 児童福祉 児童養護施設

第二章 韓国での記憶

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人格形成の一助

 1987年(昭和62年)の韓国は、大きな変化の年で、第五共和国期から第六共和国期への変化を遂げました。そのような年に私は、韓国ソウルで過ごしました。1987年7月から1年間で、ソウルオリンピックの開催前に帰国したことは残念でした。
 この年は、憲法改正が行われ、直接選挙による大統領選出や大統領の再選禁止の条項が加わり、民主主義体制の発展が顕著でした。改正後の大統領選挙で見事勝利を得たのは、盧泰愚新大統領でしたが、その選挙戦は、すさまじいもので、街宣活動は激しく、ビラは道路中にまき散らされ、お金は、飛び交う有様です。言論の自由が保障され、次々と新しい新聞社が設立、報道合戦もヒートアップしていました。そのような選挙戦の中、私も金大中さんと握手をしました。次の金泳三の後の大統領です。
 裏事情としては、普段は、猥褻物(書籍や玩具等)については厳しい統制を引かれている韓国ですが、この選挙戦の最中については、露天の店先に堂々と陳列されていました。取り締まる警察側が、選挙活動違反の取締りで忙しいため、見て見ぬふりをしていたからです。選挙が終わると猥褻物は、一切街頭から姿を消しました。この変わり身の早さは、尊敬に値します。
 11月、最も衝撃的な事件が起きました。大韓航空機爆破事件です。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の工作員が時限爆弾で飛行中の大韓航空機を爆破した航空テロ事件ですが、TVのチャンネルを回すと、どの局もそのニュースを連日放映しています。そして、実行犯の金賢姫(キム・ヒョンヒ)が飛行機のタラップから下りてくる映像が映し出された時は、韓国民の誰もが衝撃を受けました。私の率直な感想は、「美人」と言う衝撃です。こんな人が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の洗脳で工作員に仕立て上げられ事件を起こしたのだ、韓国民の中にも少なからず、同じような思いを抱いた人もいたことでしょう。実際、1990年に金賢姫(キム・ヒョンヒ)は、恩赦措置がとられ死刑を免れていました。
 ある日、ニュースを見ているとインスタントラーメンの事を騒ぎ立てていました。私は、韓国語を翻訳できないので、映像のみで内容が分からず、他の人に聞いてみると、インスタントラーメンの麺を工業用油で揚げていると言う内容でした。私が時々食べているラーメンも、そのリストに入っており、二度と韓国のインスタントラーメンは食べないと心に誓ったものでした。
 韓国での情報収集は、日本人会の本部で衛星放送のニュースを見たり新聞・雑誌を見たりして得ていました。

 ぜひ、外国での長期滞在をお薦めします。それは、あなたの人格形成の上で必ずや役に立ちます。日本における島国的思考と大陸的思考は明らかに異質であり、大陸的思考を肌で感じ学ぶことは、あなたの人間性を豊かにし、それが、子どもたちへの対応に繋がっていきます。

共感と実行性

 私は、韓国ソウルで1年間過ごしましたが、その時、出会った一人の少年について、複数の関係者から情報を得て、物語を構成しました。

 1976年12月24日、ソウル(韓国首都)は大雪だった。積雪は1mに達し、雪が町を呑み込んでいた。その上、吹雪で人通りも絶えていた。その中を一人の女性が子どもを連れて歩いている。
 子どもの右足には、金属の補装具が装着されており、その足を引きずりながら一生懸命母親の歩調に合わせて歩く姿は、どこか哀れに見える。
 母親は、門の前で立ち止まった。門には「天使園」(チョンサウォン)と表示がある。そろそろ25日を迎えようとする深夜であった。
 気温は、零下15度くらいであろうか非常に寒く松葉杖を持つ手袋を着けていない少年の手は真っ赤に腫れ上がっている。少年にとって松葉杖は一心同体であり、これがなければ生活そのものが成立しないと言っても過言ではない。少年、金属の補装具、松葉杖、この三つが一体となり少年の歩行が許されているのであった。
 この親子の生活がどの程度のものかは、服装によっておおよその見当が付けられる。子どもは、布製の靴、コールテンのズボン、色あせたブルゾン、毛糸で編んだ帽子。母親は、如何にも古そうな革靴、所々染みの滲んだ古いコート、そして、頭から首に巻いた赤いマフラー。この二人の服装はどれをとっても着古した物であり貧しい生活の様子がうかがい知れた。
 母親は、しばらく門の前で立ち止まっていたが急に子どもの方へ振り向くと、松葉杖を取り上げ門の中へ投げ入れた。子どもは、大事な支えを奪われ雪の地面に倒れていった。まだ、5歳前後の幼い子どもであった。
 何故自分が冷たい雪の上に倒れたのか一瞬間、少年には理解できなかった。だが、目の前にある松葉杖を見て、少年は、現在の状況を把握することができた。自分の唯一のより所である母がこのような仕打ちをしたのであった。少年は、驚愕し不安を感じた。
 寒い、酷寒と雪の冷たさ、それら外部から襲う寒さと、内部から迫りくる寒さが相乗作用を起こし少年は、気を失いそうなくらいであった。
 少年は、気を取り直し母親の方へ振り向いた。ところが、そこには鬼のような形相をした母の姿があった。優しかった母の姿は微塵の欠片も残っていなかった。
 「この役立たず。お前なんか死んじまえ。生きていても仕様がないだろう。」
 母親は、自分の子どもに罵声を浴びせると同時に子どもの横腹の辺りを蹴った。何とも悲惨な光景であった。
 しばらく沈黙があり母親は、急に優しい表情になった。
 「生きたいか…」
 「うん…」
 幼い少年にとって、まだ生きるか死ぬかの概念は乏しかったのだか、少年の本能が「うん」と答えさせた。
 ところが母親は、再び豹変して険しい表情になったやいなや少年に罵声を浴びせた。
 「お前が生きていることが…
  その事が罪なんだ…
  やっぱり、お前は、死んだ方がいいんだ。」
 罵声を浴びせている母親の目から一粒の涙がこぼれ落ちた時、母親は我に返り平常の状態に戻った。それから、少年を諭すように言った。
 「お前は、お母さんと一緒にいると幸せに成れないんだよ。病院には連れて行けないし、薬も買えない。食べる物も禄に与えることができない…。」
 少年は、冷たい雪の絨毯に倒れたまま母親の話に耳を傾けていたが心中では、早く家に帰って暖かい布団で寝たいと思っていた。
 母親は、更に話を続けたが、その声は、震えていた。
 「いいかい!よく聞くんだよ。この坂の上の方に大きな建物がみえるだろ。」
 母親は、10mほど坂を登ったところにある建物を指差して言った。そこは、心身障害児の居住施設であったが、無論、少年には、それが何の建物かは分かる術もなかった。12時は、とっくに過ぎておりクリスマスである。付近の民家からであろうかクリスマスの歌が聞こえていた。
 「お前は、これから、あそこに行くんだよ。行ったら、ドアを叩いて人が出てくるのを待ちなさい。いいね、分かったかい。そこには、とても親切な人がいて、お前に優しくしてくれるんだよ。」
 母親は、少し坂道を登ると踵を返し少年の横を通り抜けて行った。5mほど過ぎて少年の方に振り向き。
 「いいかい、あの建物に一人で行くんだよ…」
 そう言うと来た方向に立ち去っていった。もう二度と振り向くことはなかった。

 眞明(ジンミョン)は、いつも通り朝4時に起きた。彼女は、キリスト教の信者で毎朝4時に起きて施設の玄関を掃除し教会に行き、朝の祈祷を神に捧げるのが10年来の日課であった。彼女の生活にとって信仰が糧でありすべてであった。彼女は、10年前「自分の身体、能力を神様のために役立てたい、自分のような小さな存在でも何かできるかもしれないのでは。」と思い、社会福祉法人 ○×児童福祉天使園 所望の家(心身障害児の居住施設)に保母として就職したのであった。
 眞明は、子供たちが起きないように静かに布団から出ると防寒着に着替えた。それから洗面所に行き顔を洗う。冷たい水で顔を洗うと身体のすべての機能が目覚めたような感じになった。洗面を済ますと手袋を着けて居室の戸を開ける。居室は、温突(オンドル)で温かいのだが廊下はひんやりと肌寒かった。廊下にでて掃除用具入れから箒とちり取りを出し、玄関に行って戸を開けた。すると何か大きな固まりが倒れていた。眞明は雪だるまだろうと思った。
 動いた。雪の固まりが、今、確かに動いたのである。眞明は一瞬驚いたが、その目は好奇心で溢れていた。眞明は雪の固まりに恐る恐る近づいていくと手に持っていた箒で雪の固まりを払った。すると、下から服の生地が見えた。眞明は慌てて雪を払いのけると、まだ、5歳程度の幼児が倒れているのであった。その足には、金属製の補装具が付けられていた。
 「生きているわ。大変、早く暖めてあげないと…」
 眞明は、子どもを抱き上げると保母休憩室に走った。休憩室では、三人の交代保母が休んでいた。
 「みんな起きなさい。救世主が大変なのよ。」
 三人の保母は、眠そうな目を眞明に向けたが事態を察したのか飛び起きた。
 「久しぶりの救世主ね…」
 「そうよ。それより善映(スンユン)は園長先生を呼んできて、仙姫(ソンヒ)はお湯を沸かす。秀羅(スラ)は布団を。みんな早くよ…」
 棄児の事をこの施設では、救世主と雅びた呼称で呼ぶようになっていた。
 眞明は、床に子どもを静かに横たえるとタオルを持ってきて、優しく頭や顔を拭いてあげた。
 眞明が雪の中から助け出した時には、気を失っていた少年が、いつの間にか気を取り戻し、紫色に変色した唇を小刻みに震わせ歯もガチガチと鳴らしていた。
 「もう、大丈夫よ。今、温かくしてあげるからね。」
 眞明は、穏やかな口調で優しく少年に話しかけながら濡れた衣服を脱がせた。少年の身体は、真っ青で冷え切っていた。少年は、金属製の補装具(正式には骨盤帯付長下肢装具)を装着していたが、眞明は、それを外すのにしばらく躊躇った。補装具の金属部分の下が紫色に腫れ上がっているのが診てとれたからである。眞明は、少年の苦しみを少しでも早く軽減させてあげようと自分自身に納得させ、ゆっくりと、そして、丁寧にベルトを外し靴を脱がせた。足は、凸凹と表現しても過言ではないくらいに腫れ上がっていた。
 眞明は、思わず少年を抱き締めてしまった。哀れだった。少年が哀れで仕方なかった。何に対してか分からないが怒りさえ覚えた。
 「神様、何故、こんな幼い子が、こんな酷い苦難を受けなければ行けないのです。
  …助けてください…。この子を生かしてください…。お願いします。」
 眞明は、少年を抱き締めて神に祈った。切なる祈りだった。その目からは涙があふれ出ていた。
 若い保母たちの動きは、実に無駄がなく手際よかった。仙姫(ソンヒ)は鍋に水を入れお湯を沸かしタオルや洗面器を準備し、秀羅(スラ)は布団と下着やパジャマを持ってきて早速布団を敷き始めた。善映(スンユン)はコートを羽織り5mほど坂を下った所にある園長宅に走った。
 眞明は、仙姫の用意したお湯にタオルを浸し絞ってから、少年の身体を拭いてあげた。部屋の暖かさも手伝ってか少年の頬に赤みが戻ってきた。冷め切った身体も次第に温かくなって唇の震えも止まった。次に、新しい下着とパジャマを着せて布団の中に寝かせてあげた。
 少年は、温かくなり安心したのか、間もなくスースーと軽い寝息を立て始めた。

 状況は違えども、戦後しばらくの日本でも、このような場面があったことでしょう。その時、福祉で働く、私たちの先輩方は、この物語に登場する眞明のように献身的に子どもたちを守っていました。時代は、変化しても、子どもたちへの想いに違いがあるのでしょうか。子どもたちの置かれている状況を理解し、その状況を自分に置き換えて考えると自ずと、自分が何をすべきかが導き出されることでしょう。

忌まわしい罪

 過去の日本人が韓国の人々に行った理不尽な強制、私がお世話になった福祉施設の園長先生の過去を物語にしてみました。

 趙(チョウ)は、まだ日本帝国主義統治時代であった1933年に江原道(北)で生まれた。朝鮮人にとって歴史上、最も屈辱的な時代に生まれたと言っても過言ではなかった。 家族は、父・母・兄が二人・姉が一人、そして祖母の7人で貧乏ながらも歴史に押しつぶされないように生きていた。38年、中学生だった下の兄と姉は、5歳の趙にとって聞き慣れない言葉を勉強するようになった。朝鮮教育令の改正によって朝鮮語教育が廃止され日本語を学ばされていたのである。翌39年10月、上の兄は「戦争に行って来る。」と幼い趙に言い残し家を出たが、その後、上の兄は二度と帰らぬ人となった。国民徴用令が発布されたのであった。11月には、創氏改名令が公布、先祖代々の姓を日本風に改めろとの命令であった。この頃から酒を飲まなかった父が、急に酒を飲むようになり、母の笑顔も少なくなってきた。
 趙家は、農業を営んでいたが、1911年の土地調査事業により先祖伝来の田畑を奪われ、今では小作農に甘んじなければいけない状態であった。その上、創氏改名令である。先祖代々の土地を奪われ、それに飽きたらず姓まで奪おうとしている。そんな理不尽なことが許されていいのか。趙の父の日本に対する恨(ハン)は募っていくばかりであった。届出期間は6か月であったが、その間、家族全員が日本風に改名しても父は、決して改名しようとしなかった。
 趙にとって忘れ去ることの決してできない出来事が40年5月に起こった。改名を拒否した父を日本軍警察が連行したのである。一週間後、父は家に帰ってきたが棺桶の中であった。死体を見ると拷問の跡が見るも無惨に残っていた。当時7歳の趙にとって難しいことは分からなかったが日本人に父が殺されたことだけは分かった。父の亡骸に縋って趙は、泣いた涙が拭いても拭いても拭いてもあふれ出てきた。
 傷心の趙を慰め、可愛がってくれたのは、家族と隣家の早雪(チョソル)であったが、その早雪も41年、日本人に強制的に連行されていった。趙は、後年になって聞いたのだが、戦争が拡大するにつれて労働力不足が深刻化してきた日本が朝鮮人狩りを強行したとのことであった。その中で女性の早雪は「慰安婦」と言う名目で騙され南方の戦場へ連れて行かれ売春を強要されたらしいとのことであった。これを知った時の趙の悲しみは計り知れないものであった。
 趙の母は、事態を深刻に受け止め、このままでは家族全員生き地獄を味わうことになるかもしれない。いつ自分の身にも日本人の魔手が伸びてくるか分からない。と危惧を抱き、せめて、奎煥(キュウハン)だけでも生き延びてほしいと願い。趙を江原道(南)の叔父の家に預けることにしたのである。42年のことであった。
 これが家族との再会できぬ別れになるとは知る由もなく趙は、叔父の家で世話になることになった。
 45年8月15日、長きに渡った戦争が日本の敗戦と言う形で終止符が打たれた。これは、朝鮮人民にとって終戦の喜びと共に日本の呪縛から解き放たれた解放をも意味していた。「これで俺たちは自由だ。」朝鮮半島全土が歓喜の嵐に包まれた。
 その中で趙も叔父宅の家族が喜び涙しながら「万歳!」を叫んでいるのを見て「ああ、これでやっと家に帰れる。」と安堵するのであった。
 しかし、当時12歳の趙は、勉強に打ち込んでおり、中学を卒業してから家に帰ろうと考えていたのであるところが、歴史の波はそんな趙の考えを木っ端微塵に打ち砕いた。
 46年5月、38度線を境に民間人の通行が全面的に禁止されたのである。そして、48年8月大韓民国、9月には朝鮮民主主義人民共和国が樹立。趙は、離散家族の運命を背負うことになった。

 「子どもが言うことを聞かない」「勝手なことばかりする」「言い訳が多い」等々、子どもたちがあなたの思い通りにならないとき、イライラしたり感情的になったりすることはありませんか。それは、裏を返せば、子どもたちを自分の思い通りに強制したいと言うことになりませんか。人が人を思い通りに服従させる、これは、歴史の上での忌まわしい罪と同罪になります。あなたは、子どもたちを強制するのではなく適正な方向へと導くことが大切な役目なのです。

家族旅行の夢実現 2008年07月15日

 私は、1987年、大韓航空機爆破事件やソウルオリンピックの頃ですが、韓国のソウルで1年間過ごした時があり、その時は、独身でしたが、家族ができたら、家族をソウルへ連れてきたいとの夢を描きました。
 その夢を、やっと叶えることができました。長男も大きくなり、親として家族旅行に連れて行ける機会も失いつつあり、今年が最後のチャンスです。コツコツと資金を貯めて、まずは、パスポート申請です。
 そして、安いツアー探し、ツアー会社の料金表をチェックすると、大体、7月16日までが安い料金設定、それ以後は、数千円から数万円、一気に料金が上がります。それで、7月14日からの2泊3日のソウルツアーを選択しました。それも、成田発ではなく羽田発を選択しました。成田発の方が安いツアーがありますが、遠いので近場の羽田を選んだ次第です。
 出発の朝は、早朝6時前には、自宅を出なければいけませんので、タクシーの予約をします。しかし、中々、予約が取れません。なんだかんだと言い訳があり断られます。6件目の電話で何とか予約を取り付け一安心でした。
 そして、当日、子どもたちにとって初めての日本出国であり、異国への入国です。空港での手続きを滞りなく済ませ(経験し)、一路韓国ソウルへ飛び立ちます。
 ソウルでは、ツアーコンダクターがお出迎え、お約束通り、免税店へ連れて行かれ、その後、ソウルロッテホテルへ到着です。一旦、チェックインし、部屋に荷物を置いて、飛び出します。午後6時に夕食と言うことで、3時間しかありません。ロッテデパートの前のバス停からバスに乗り込みます。20年前とバスの番号が変わっているので、事前にツアーコンダクターに調べて貰っていましたので、その番号を信じ、乗り込みました。
 バスは、見慣れたルートを走ります。と言うのも、景色的には、20年前とそれ程、変化がありませんでした。20年前、過ごした場所に、無事に辿り着きました。本当は、お世話になった方を探し、挨拶したいのですが、時間がありません。当時はなかったファミリーマート(コンビニ)で飲み物を買って、路上で一休み、一寸だけ想い出に浸り、バスに乗ってホテルに戻ります。バス賃は、1,000ウォン、日本円で200円弱でした。ちなみに地下鉄の運賃も1,000ウォンでした。
 夕食は、近くの焼肉店で豚カルビでした。キムチやナムルは、サービスでつきますが、ツアー料金の中にご飯は、ないらしく、ご飯は、別料金で注文です。ついでに、カルビ湯(骨付きカルビのスープ)を注文しました。子どもたちも大満足で食べていました。
 その後は、セブンイレブンで、明日の朝食を調達です。キムパブ(海苔巻き)やおにぎり、お茶を購入しました。雑誌コーナーを見ると日本のように漫画本は、ないようです。お菓子や一寸した雑貨などは、殆ど、日本と変わりない品揃えです。
 部屋に戻り、ネットに繋ごうとすると、ソウルロッテホテルは、五つ星ホテルなので、インターネット接続は、無料と思っていたら、何と、課金をします。24時間は、20,000ウォンです。日本円で、約2,200円、初日は、繋ぐのを諦めて、2日目だけ繋ぐように考えました。
 2日目は、昨日買った、海苔巻きの朝食を済ませ、飛び出します。まずは、徒歩で、プレスセンターを目指しました。当時、そのビルに日本人会があり、一週間遅れの新聞を見たり、当時のNHK大河ドラマの独眼竜政宗を見ていた想い出の場所です。しかし、現在は、プレスセンターではなく、日本人会もそこにはありませんでした。
 次は、ソウルで有名な大型書店に入りました。日本の本のコーナーも勿論ありました。20年前よりスペースが広がっていました。その後は、世界遺産の昌徳宮へ向かって、ひたすら徒歩です。途中でマクドナルド体験です。本当は、ハンバーガーを試したかったのですが、午前11時以降と言うことで、マフィンを子どもたちに体験させました。そして、昌徳宮です。大体、350円程度の入場料を払い、入りました。時間的に、英語のガイド時間でしたので、全く説明は、分かりませんでした。子どもたちも暑い中での徒歩移動で、少し疲れが出ていましたので、1/3程度で引き上げました。
 地下鉄の駅に向かう途中で、喫茶店に入り、かき氷に舌鼓、小豆やきなこ、小さな餅がトッピングと言った感じで、美味しかったです。ちなみに、その喫茶店は、禁煙でした。
 地下鉄に乗ります。1,000ウォンで切符を購入し、プラットフォームへ、電車との間にドアがあり、安全です。一駅だけ乗り、乗り換えです。一寸苦労しましたが、何とか乗り換えることができて、ロッテホテルに到着です。
 次は、お土産の買い物です。地下の商店街に行き、日本語ぺらぺらのおばあちゃんの店で、殆ど、お土産を揃えました。免税店や観光旅行者向けの店で買うより、明らかに安価に済みました。
 荷物が増えたので、一旦、ホテルの部屋に戻り、1時間30分休憩、それから、ロッテ百貨店(デパート)の地下食料品売り場で、残りのお土産や明日の朝食を購入し、フードコートで夕食です。冷麺、ビビンパブ、焼きうどん、中華セットを購入、食券システムなので、そのシステムを理解するのに一寸苦労しましたが、何とか片言の韓国語でクリアです。これは、美味しい、これは、少し食べづらいなど、楽しく批評しながらの食事です。
 この文章は、2日目の夜、書いています。いよいよ明日は、帰国ですが、短い時間ですが、子どもたちにたくさんのことを経験させられたので親として、満足しています。普通の観光旅行では体験できない経験ができたと思います。
 私の韓国語は、本当に少しだけしかできませんが、何とか相手に伝わりますので、最低限の会話は、可能でした。20年経っても、覚えているものですね。

韓国旅行

 2泊3日の家族旅行は、あっと言う間に終わり帰国しました。今日は、帰るだけなので、特に記載することは、ないのですが、出国手続きの時に、息子が手荷物に入れていたシャンプーとボディソープが1L以上と言うことでチェックを受けました。往路は、通れましたが復路でダメでした。チェックインカウンターに戻り、荷物を預けろと言うことで面倒だったので、処分をお願いしました。
 さて、韓国の印象は、20年前と比べると、バスは、良くなりました。以前は、ドアをきちんと閉めないバスがあったり、スピードメーターが壊れていたりするバスがありましたが、現在は、さすがにそれは、なさそうです。しかし、相変わらずスピードは、出します。エレベーターは、関西形式で右側に立ちます。このルールは、随分浸透しているようでした。以前と大きく変わったのは、屋台の数が明らかに減りました。また、地下街に下る通路での露天商も減っているようです。
 地下鉄では、電車内で携帯電話での通話をし放題でした。それも大きな声で、ある人は、明らかに電話の相手に対して怒っていて興奮状態です。
 町中は、以前に比べると、勿論近代的になりましたが、路地裏に入ると、下町風情が色濃く残っています。しかし、それは、同時に、臭いも残っているのです。路地裏から、時には、ヘドロの香りが漂ってくるのは、相変わらずです。排水路を覗いてみると、タバコの吸い殻やゴミで埋め尽くされています。くわえタバコも平気な様子で、ポイ捨てです。マナーの近代化には、もう少し、時間を要しそうでした。
 私が、最も疑問なのは、免税店の意味です。ツアーでしたので、お約束通り、行きと帰りに免税店やお土産屋さんに寄らされますが、例えば、キムチ入りチョコレート、免税店では、30,000ウォンですが、町中の普通の商店では15,000ウォンと1/2の料金です。確かに税は、徴収していないかも知れませんが、販売価格をぼったくっている印象をぬぐえません。従って、免税店やお土産屋さんで一切買い物しなかったので、ツアー客としては、最悪でしょうね。
 5つ星ホテルのロッテホテル、確かに建物的には、古いので仕方ないかも知れませんが、明らかにコンセントの数が少なく、ノートパソコンは、料金を支払えば、高速インターネットに繋げますが、高速と言っても1.6Mでしたが、コンセントがなく、仕方なく湯沸かしポット用のコンセントを使用しなければいけませんでした。そのコンセントを探すために机の裏とかを見ましたが、埃が溜まっていたので幻滅です。一流ホテルとしてのプライドを持って欲しいと思いました。
 私にとって、1年間過ごした韓国ソウルは、第2の故郷で、とても大好きな街です。韓国人も大好きです。今回の旅でも、困っている日本人の手助けをしたいが、日本語を話せないので、どうしようと戸惑っている青年に何度も出会いました。だからこそ、このブログでは、韓国での体験を飾ることなく表現しています。
 今回の旅は、天気に恵まれ、短時間ながらも満足の旅が出来ました。韓国の旅では、ビザ(査証)が要らないので、国内旅行気分でいけます。ツアーを選べば、国内旅行より安価に旅行できる位です。焼失事件の南大門は、覆われていたので見えませんでしたが、多分、修復中でしょう。竹島(独島)問題は、トップニュースで報じられていますが、アメリカ産牛肉問題は、沈静化している印象でした。それらのニュースも特に、観光旅行には、支障がありません。韓国には、楽しめるイベントがたくさんあります。
 是非、皆さんもお隣の国、韓国を訪問してみては如何でしょう。

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